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日記

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記事一覧

ツイッターから逃げ出してきた

ツイートを書いていて、100文字くらいまで書いたところで書く手が止まって、投稿に至らないことが増えた。

投稿できずにツイートが下書きにたまっていくようなことは昔からあったが、それとはまた異なる葛藤でもって投稿できなくなる。

というより最早、投稿は下書きにも残さずに消してしまう。「書いたはいいが投稿できない」のではなく、書いている途中で「全然コレじゃない」となるので、残そうと思えない。

書きた

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今とても視野が狭い

今とても視野が狭い

いつまでもこのコロナ禍というものが何なのか捉えきれずにいる。人災では当然なく、天災ではあるが台風や津波のような直接的な被害を与えるものでもない。気が付けば始まっていて、終わりも明確なそれが訪れるのではきっとない、掴み所のない災い。

何か悔やむべきことがあるわけでもなく、誰かを弔うようなものとも異なる(もちろん亡くなっている人はいるものの)。自分に出来ることはなんなのか、いまいち分からない。

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前のめりに読むことについて

前のめりに読むことについて

ようやく本の読み方がなってきた気がする。今日は散歩をしながら、本を読んだり読まなかったりした。そういうノリで本を読んでいたのが良かったのかもしれない。

本が読めないときにやってしまいがちなこととして「同じ行を何度も読んでしまう」というのがあるが、あれは行の右から左へ移っていく時間軸に対して、少し後ずさってというか後ろにつんのめって読んでいるからこそ先の行に目が移らないのではないか。そこにあるのは

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春は外へ出ようと決めた

おれの中で、時間はべつに速いほうだ。たとえば放っておけばおれは早口だ。自分でも反省するし、ひとに言われたこともあるけど、ゆっくり喋ってみたら? というの、そしてゆっくり喋るために、ゆっくり考えてみたら? 頭の中のギアをチェンジ。普段よりもローなギアにシフトチェンジ。さっき、すごい勢いに任せて文章をバーっと書いていて、書けた書けたーって気持ちと、でも達成感しか残ってない、言葉をただ書き散らしてしまっ

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「演出家」についての再三にわたる考察

「演出家」についての再三にわたる考察

文章を「しっかり」書かないといけない、と変に気負ってしまうのは病気だなと思う。必ずしも「しっかり」書くこともない。それは何より疲れる。そんなわけで論証はサボらせてもらいます。書けるように書いた。そして読めるように読んでくれたらと思う。今日くらいお互いラフに、ラクにやりましょう。

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「演出家」とは何か、というのをもうずっと考えている。それは自分が何の因果か「演出家」という役割を担うようにな

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関内駅1.2km

2本の舞台をみた。関内というところであったので、駅を検索したが、出てこなかった。漢字だと出るのは、関内はかんないと読みせきうちとは読まないのだった。そりゃそうだろうか? 舞台がとてもよくてお腹が減ったが、携帯の充電が残り少ない。天馬のカレーが気になった。1000円払ってもお腹がいっぱいにならない気がして吉野家へ行く。

疲れていたので帰るか悩んだがせっかく横浜まで来たのでもう一本何かみることにした

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絶対すまし汁地獄行き思案

完璧な風邪になったんだ俺は。上から下まで。完膚無きまでに。肩から肩にかけて寒いと思ってたんだやけに。右から左に。明日稽古なんでもう冷や汗出まくり。この寒さ、氷パワーが使えなければ不自然なレベル。

ついでにくしゃみも酷い。

予約したダンス公演もこれはちょっと行かない方がいいかもしれない。所用があってすでに会場近くにスタンバってるというのに。それはまだ決めかねてるけど、これですごすごと帰るとして、

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年末を振り返る人がたくさんいる

やる気が出ないから文章でも書くかっていう、そういうモチベーションが不意に湧いてきたのだけど、この前は「疲れたから書く」とか言ってて、なんだろうそれって、どういうことなんだろう、文章を書くということの中で何が起こっていて、何を求めているのか、分かるような分からないような。けれど少なくとも必要なときだけそれがほしい。「毎日書く」と決めて書くのはとてもつらい。他人のそれを見ていてもしんどい、決めたから書

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書くことと歌うことと踊ること

作業に疲れたから文章を書く。ストレス解消として、ちょうどカラオケで一人で歌うような気分でこの文章は書かれている。最近はそういえばカラオケに行かない。むかし、というか大学受験期、自分にとってコスパの良いストレス発散法を探していた時期があって、その時カラオケはまあまあ良いじゃんと思ってよく行っていた。また行ってもいいのにと思う、けど、別に家で歌えば良くない? 必ずしも大声で歌わないとストレス解消になら

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「座れるところ屋さん」

芝居を見るために吉祥寺を降りて、少し時間が早かったのでずっと気になっていたナポリタン専門店に入ろうかなと思った。そこは吉祥寺の劇場に行く通り道にあってよく見ていたけど、なぜだろう「専門店」みたいな感じを出されるとどうにも気が引けるというか、こういう言い方はなんだけど胡散臭いみたいな、そういう印象をどうしても持ってしまう。「専門店」ってわざわざ言うのがどうもしっくりこないというか、それはナポリタンで

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どろどろにつかれた

つかれたのでつかれたしかいえない。けどつかれたのをいいたい、何かしらいいたい、頭の中で考えていることを、なにかしら表現はしたいので、つかれたっていうことを書きながら、ひょうげんできたらいいし、そんなことしてたらよけいつかれそうだけど、書くことでつかれがとれるような書き方ってないかしら。思ったことを工夫なくダダ漏れで書くのはつかれないかもしれない、けどそれがべつに楽しくないただダダ漏らすだけの作業だ

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電車でサンドイッチ食べた

何かを考える人の姿というのは美しいものだ。演劇の稽古をしながら、俳優もまた、産みの苦しみに考えを巡らす、その様子にはえも言われぬ感動がある。一方で、何か美しさとは別の、みっともないような……というと失礼だが、しかしそういう風に見えてしまう悩み方をする人もいて、その違いは何か、と考えていた。

そこにあるどんづまったような感覚は、「考える」という行為の持つぐんぐんと進んでいくような勢いのない、ある種

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これは納豆の話だ。

納豆を納豆だけで食べる人が信じられない。納豆はごはんと一緒に食べるもので、納豆だけで食べるものではないと思う。僕がそう言うと渡邊さんは、納豆を納豆だけで食べるのは妥協だ、と言った。サイゼリヤでミラノ風ドリアを食べながらのことだった。つい先日までフランスにいた渡邊さんは向こうで納豆が食べられなかったので、ごはんがなくて、それでもどうしても納豆を食べたいとき、仕方なく納豆だけで食べることはあるけれど、

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なんか思ったこと

何か悲しい事件が起こったとき、僕は加害者に共感してしまう。それは被害者には共感しないということではない。どちらもに共感する。今の自分の人生に何ら必然性を感じないで、別に何にでもなりえただろうと感じて生きる私は「かつて/この先、被害者にも加害者にもなりえた/なりうる」という可能性に対する素朴な確信がある。あるいは既に、私は何かの被害者であり加害者であることの確信がある。

加害者にも被害者にも同

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