記事一覧
きみに伝えるヒストリー㉓
第一次世界大戦
1914年8月に第一次世界大戦が勃発しました。この時は、これを欧州大戦あるいは世界戦争と呼ばれてました。第一次と付くのは第二次世界大戦後からです。
事の発端は、この年の6月にオーストリア帝国のフランツ大公夫妻がボスニアの首都のサラエボ訪問時に、セルビアの民族主義者の若者に射殺されたことによります。オーストリア政府は犯人グループの引き渡しを要求しますが、セルビアはこれを拒否し
きみに伝えるヒストリー㉒
辛亥革命 こういった状況の中、武昌での革命軍、つまり清朝政府から見れば反乱軍の情勢が優位になってきていることを受け、清朝政府は袁世凱のほかにこれを鎮圧できる者はいないと判断します。そして、彼を清朝の湖広総督(湖北と湖南両省の総督)に任命し反乱軍の鎮圧を命じました。これが、1911年10月のことです。
しかしながら、袁世凱はこれを固辞します。再三の要請の後、最終的に水陸全軍の指揮権、十分な軍費の
きみに伝えるヒストリー㉑
伊藤博文暗殺 1909年6月に韓国統監を辞任した伊藤博文は、10月にロシアの財務大臣と満州で朝鮮問題について非公式に話し合うことになっておりました。そして、そのために訪れたハルピン駅で射殺されました。
射殺したのは、韓国の独立運動家の安重根(アン・ジュングン)です。彼はその暗殺動機として15の理由を述べております。これことから彼は伊藤を朝鮮支配の象徴としてとらえていることがうかがえます。ところ
きみに伝えるヒストリー⑲
日露戦争 1903年にはいって東清鉄道が完成したことによりロシアの極東進出が急テンポに展開してきました。奉天や営口(共に遼寧省、奉天は今の潘陽)まで兵力を増強いたします。朝鮮にも侵入して、鴨緑江下流の龍巌浦を占領し、その租借を要求しました。
日本とロシアは日露協商に向けて基礎条項について交渉を始めました。日本案は清と朝鮮の独立、領土の保全、商工業の機会均等を骨格とした案を出しております。これに