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HSP、共感疲労、10粒の豆

私の仕事始めは明日で、今日が年末年始休暇の最終日。
とはいえ、明日もリモートなので、過去の仕事始めのときより気が楽だ。
上司や同僚の中には、羽田空港の混乱のせいで予定通りに出勤できない人もいると思われるので、コロナの類型変更のあともリモート勤務を容認しているいまの会社は結果的に賢明なのだろう。

避難所にいるかたも、Uターンで混雑する交通機関にいる人も、感染症には気を付けてほしいと思う。
物理的に距離をとることは難しいだろうから、製造会社や販売会社は使用期限が迫った在庫のマスクを配布してほしいなぁ。
埃や乾燥防止にもなるし。

数年前、「繊細さん」の本が話題になったときに、私の「他人のケガが痛い」のはHSPの特性だとわかった。
みんなと違うなぁと思っていたポイントが、HSPということで理由付けられたことは、私の心をいくぶん落ち着かせた。
病気ではなく「気質」ということが証明?された気がして。

今日のヤフーのトピで、大地震、航空機事故、それらに伴う大火災と、立て続けに心を抉られる映像が「共感疲労」の原因になると書かれていた。
確かにそうなのだと実感している。

けれども、その一方で、私はこの自分の気質を肯定しているのだ。
これがなければ、いままで私が紡いできた言葉の多くはなかっただろう。
およそ18年間で1万を超える記事は、書かれなかったに違いない。

しかし、それよりも。
他者の痛みや悲惨なできごとに、共感できない(しない)人より、できる人でいたい。
生きていくにはある程度の「鈍感力」が必要だと承知のうえで、教科書通りの理論を無邪気に振り回すより、共感疲労があっても他者の感情のほうに天秤を傾けていたい。
私まで正論を書かなくていい。

フランスのドラマ「アストリッドとラファエル2」で、アストリッドの通う自閉症サークルのリーダーであるウイリアムが言う。
「手を出してごらん。僕を信じて」
出されたアストリッドの手のひらに、彼は10粒の豆を置く。

10粒の豆は、彼女の心のキャパシティ。
事件の捜査を通じて、ラファエル警視に少しずつ心を開いていくアストリッドだが、努力すればするほど負荷が積まれていく。
騒音の中に身を置けばひとつ、雑踏に巻き込まれればまたひとつ、ストレスが溜まり、豆が減る。
「でも、静かな資料室に戻れば、こうして戻るだろ」と、彼は取り上げた豆をひとつ戻す。

「いいかい。この豆をゼロにしちゃダメだよ」

ときどき、私も豆を数える。
そうして、ひとつ減ったらひとつ戻そうと思っている。

結婚前は、常に5つくらい減っていて、一人旅に出て一気に全部戻したと思う。
結婚後はたぶん何度かゼロになった。
それで15年もすべての感情を失っていたのだ。

ネットでちょうどよい距離の交流を始めてひとつ。
一人で珈琲を飲んでひとつ。
誰かとビールを飲んでひとつ。
短歌を詠んでひとつ。
ブログを書いてひとつ。
そうやって豆を戻してきたのだと思う。
それがなければ、トリプル介護時代は乗り切れなかったに違いない。

だからといって、被災地の苦悩に心を寄せなくなるわけではない。
愛した街が壊滅した衝撃を、記憶の底に閉じ込めることはできない。
でも。
ひとつずつ、豆を戻していく。

私にとって書くことは、豆を戻す作業でもある。
毎日書かずにいられないのは、それだけ自分の心がざわついているから。

「折々の 花の清しは誰も詠む 吾は胸張り 吾の毒詠む」

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