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ハードボイルド書店員日記【109】

「他にこれっぽい本なかったっけ?」

穴から這い出る山椒魚の気分でレジを抜け、手帳コーナーと実用書の暦を整える文化の日。同じ色の同じサイズで外見もそっくりな別商品がしれっと平積みの上に載っている。まるでジェントルなモグラ叩きだ。特に暦は購買層の中心が高齢者ゆえ、配慮が欠かせない。交換希望はレシートがあり、なおかつ購入から一週間以内であれば応じられる。だが寒い季節にもう一度お店へ足を運んでもらうのは申し訳ない。

レジの方から書店では珍しくもない不条理な質問が聞こえてきた。初老に近い男性が左端のレジで話し、文具・雑貨担当のアルバイトが受けている。「作者は一緒ですか?」「一緒だと思う」「同じ出版社ですか?」「わからない」「いつぐらいに出た本ですか?」「全然わからない。タイトルも思い出せない」「えーと…」荷が重いかもしれない。大股で戻る。

「大丈夫?」「あ、すいません。この本じゃなくてこれっぽいのをというお問い合わせで」彼女の手元にあるのは、新潮文庫から出ている沢木耕太郎「一瞬の夏」の上巻。一度はリングを離れたカシアス内藤というボクサーが再起を懸けて立ち上がるノンフィクションの名作だ。「面白いですよね」「読んだの?」お客さんが身を乗り出してくる。「じゃあわかるかな? これっぽいんだけどこれじゃないこの人の本」まるで早口言葉だ。「少々お待ち下さいませ」彼女には隣へ移ってもらった。繁忙期のカウンターは風呂場の排水パイプと似ている。どこかで流れが滞るとたちまち全体が詰まってしまう。

「お待たせいたしました」朝日文庫「春に散る」上巻を見せる。「こちらはフィクションですが、題材は同じボクシングです。さらにトレーナーと才能ある若い選手の二人三脚という点も」パラパラとページを捲ってくれた。「……そうか。小説なのか」「お探しの本ではなかったですか?」「いや、たぶん合ってる。沢木さんだからノンフィクションだと思い込んでたけど、あの人小説も書くんだよな」「ですね。『波の音が消えるまで』とか」「バカラを研究するやつね。あれは良かった。この本も面白そうだから読んでみるよ」「ありがとうございます」

あ、そうそうと男性がまた首を傾げる。「先月この人のエッセイ本を買ったんだ。夏ぐらいに出たやつ」「ええ」「それが第二弾らしくてさ」「かしこまりました。お持ちします」「いまのでわかるの?」「たぶん」

新潮社の「旅のつばくろ」を渡した。「こちらが発売されたのは2年前。今年6月に出たのが続編の『飛び立つ季節:旅のつばくろ』です」「うん、そんなタイトルだった」「どちらもJR東日本の新幹線車内誌『トランヴェール』で連載していたものです」「じゃあ間違いないね。いただくよ」トランヴェールで合ってるよな。頭の中で確かめつつ「かしこまりました」と応じる。旅行など何年もしていない。

カバーを掛け、栞を挟み、プラスチックのレジ袋に入れる。「袋、有料なんだよね」「申し訳ございません」「いやいいんだよ。ルールを決めたのは偉い人だし」「個人的には、一定額以上お買い上げの方には無料にしたいです」「ありがたいね」「その方が楽しくてクールでセクシーかと」数秒後、男性の顔に笑みが広がった。さすがにこの年代は政治の話題に詳しい。「アナタ面白いね。いろいろありがとう」「あとひとついいですか? できたら『春に散る』を先に」「なぜ?」「実は『旅のつばくろ』の中で『春に散る』のラストに触れている箇所があるんです」「え、そうなの?」「その辺の大らかさが沢木さんらしくて私は好きですが」「助かったよ。教えてくれなかったら『旅のつばくろ』から読んでた」

レジがひと段落。考えた。書店はいまのままではいけない。お客さんとのコミュニケーションを大事にしたい。そのためには現状みたいなモグラ叩きではなく、もう少し余裕のある働き方ができるように変えていく必要がある。売り上げを伸ばすだけではなく、利益の配分率を本気で見直す頃合いだ。

あの議員なら「いまのままではいけない。だからこそ書店はいまのままではいけない」とコメントして終わるかもしれない。だが当事者の置かれた状況はもっと切実だ。

ふと「春に散る」上巻355ページを思い出す。たしかこう書かれていた。「燃え盛る炎の中に投げ込まれ、人の魂はのたうちまわるのです。もしその魂が真に正しいものならば、どのような炎をくぐり抜けてもなお、水晶のような硬さと透明さを失わないはずです」

つばめのように軽やかには生きられない。だがまだ散るつもりもない。いつか炎をくぐり抜け、選んだ道の正しさを証明してみせる。

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