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ハードボイルド書店員日記【119】

「実は俺、来週いっぱいです」

確変が終わった1月の平日。人手不足は相変わらず。年末年始で売れた補充分が入ってくるので荷物は多い。客足が鈍いから回せているが、春休みになれば同じ悲劇が繰り返される。無理をしてどうにかできている状況は厳密に言うとどうにかできていない。根性とは予め計算に入れるものではなく、上層部の目論見違いを下が尻拭いする緊急手段なのだ。

昼休みから戻ってカウンターに入る。文庫担当が品出しが終わらないとぼやいてレジを抜け、アルバイトの男性とふたり。青年コミック用のカバーを折っていたら唐突に切り出された。

「次決まってるの?」「全然違う業界です。お世話になりました」「いや」雑貨及び文房具の担当だが、他の業務も積極的に覚える子だった。「書店はどうだった?」「うーん……思ってた仕事と違いました」「もっと棚作りとかしたかった?」「ですね。面接では『いずれ任せる』みたいな話だったけど」雑誌担当を長期間やっていたので気持ちはわかる。「申し訳ない」「先輩が謝ることでは」「薄々気づいていたのに何もしなかった」「そんな」空気が重くなりかけたところでお客さんが来た。

「正直言うと」レジが落ち着くや否や、早口で話し始めた。「給料的にきついのもあったんです。今年で30になるし、いつまでもバイトでは」30なんて焦る歳ではない。そもそも本屋で働いていたら何歳になっても焦る必要などない。世の中に欠かせない、誰かがやってくれないと困る仕事をしているのだ。だがその時はそうは思えないのも理解できる。「今度は正社員?」「3か月は試用期間ですが」「君なら大丈夫だよ」「そうすか?」「忙し過ぎて他の人が愚痴をこぼしているときでも黙ってやっていたし、ミスも少なかった」「前職が前職なんでこれぐらいなら」「どこ?」「アマゾンの物流倉庫に2年ほど」「ブラジルに住んでたの?」「違いますよ」わかってる。

「俺、前から思ってたんすけど」「ん?」「先輩もみんなとは少し雰囲気が違いますよね。飄々とこなしてる感じで」「そんなことはない。毎日いっぱいいっぱいだよ」「俺みたいにあり得ない職場を経験した人じゃないかなって想像してました」「訪問販売のセールスマンを1年半」「え、ピンポン押して家に来るやつ?」「そう」「何を売ってたんすか?」「リフォームと太陽光発電。休みが月に3日あったら奇跡」「……納得しました。そりゃ免疫つきますよね」「経験に勝る免疫はない。生き残ることさえできれば」マスクの下で互いにしか伝わらぬ笑みを浮かべた。

「先輩はここ続けるんすか?」「たぶん」「前に『本屋の仕事で世の中に貢献する。俺の棚で社会を変える』って言ってましたけど」「いまも同じ。できることをやる」「あの、ぶっちゃけていいすか? できると思います?」「ちょっと待って」カウンターを離れた。

「これ、良かったら読んで」幻冬舎から出ている辻山良雄「小さな声、光る棚」を手渡した。「知ってますよ。荻窪でTitleって本屋をやってる人のエッセイ」「あとがきを開いてみて」こんなことが書かれている。

「ただ本を売ることは誰にでもできることかもしれないが、書棚に光を宿すのは、思いの詰まった仕事にしかできないことかもしれない」

二度三度と頷いてくれた。「わかる気がします。先輩の担当する日本史とか哲学書の棚は面白いから」「ありがとう」「ただ、あまり売れてない本もけっこうありますよね」いい指摘だ。「次は56ページ」そこにはこう書かれている。

「すぐには売れないであろう本をわざわざ置くのは、そこに何かしらの気持ちをこめているからだろう」
「過剰な売上主義に縛られた店には、このような本を媒介としてよりよい世界に向かおうとする意志が感じられない」

うーん。何かを噛み締めるように長く唸った。「行きたくなりますね」「行くといい」「この本に影響されてああいう選書を?」「いや。自分で考えて『こういう風にしたい』とやっていたら、とっくの昔に先駆者がいた」「そういうの悔しいけど嬉しいですよね」「わかる」「もしかしたら」しばし間を置き、目を逸らして鼻の頭をかいた。「俺にとっては先輩がそういう存在かもしれません」

最後の日、彼の帰り際にこんな会話をした。「先輩っていま何歳ですか?」「もういい歳だよ」「俺が先輩の歳に達したとき、それぐらいの見識を持ってたらいいなあ」「確実に超えてる」思いの詰まった仕事を続けていれば。またふたりだけで笑い、拳と拳を合わせた。道は分かれても各々のルートでよりよい世界へ向かおう。その約束を一点に込めて。

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