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「おかずの要らない一杯の白飯」みたいな一冊

白いご飯の愛好家です。

おかずがなくても食べられます。「ご飯とおかずを交互に」が一般的だと気づいたのは思春期を過ぎてからでした。

子どもの頃に読んだ「こち亀」に、コロッケを平たく潰してソースを大量にかけると味が濃いからコロッケひとつでご飯を二杯いけると描かれていました。意味がわからなかったです。先に熱々のコロッケをそのまま食べ、次にご飯を単独で頬張ればいいのにと。

いまはスタンダードな食べ方をしています。でも昔の名残で、白飯が半分以上残るケースもしばしば。行きつけの定食屋だと、店員の人が「おかず、何か出そうか?」と気遣ってくれることもあります。大丈夫。ご飯だけで食べるのが好きなのです。

小説でたとえると、おかずはストーリーやキャラクター、白いご飯は文章そのものや文体に当たる気がします。前者は秀逸なのに後者は、と感じる書き手は僭越ながら著名な売れっ子にも少なくない(村上春樹みたいにどちらも絶品な人もいますが)。風景描写が他から浮いていたり、読点を打つタイミングが不可解だったり、センテンスのリズムがよくなかったり。

文章や文体が素晴らしければ、物語やキャラクターが地味でも惹き込まれる。却ってシンプルな方が望ましい。手を加えすぎるとバランスが崩れ、作品の世界観に落ち着きがなくなります。

文章や文体を美味しく味わえる。むしろそちらがメインでストーリーや人物は脇役。そんな風に思える一冊を見つけました。

著者は上林暁(かんばやし あかつき)。高知県出身の私小説作家です。

なんというか、気取ったところがない。それでいて品の良さと知性が漂っている。情景がスムーズに頭に浮かび、登場人物の心情を自分の思い出のように感じられる。

たとえば「天草土産」の冒頭のこんな一文。

森は肩にかけた雑嚢のなかに、読みかけの『死の勝利』と、読み古した、そうだ、高等学校の裏山つづきの茶畑のなかで、樟の丸太に腰を下ろして幾度も口誦んだ川路柳虹訳の『ヴェルレエヌ詩集』を入れ、阿蘇山から買って来た木刀型の登山杖をついていた。

「天草土産」

そこそこ長い。でも読んでいてだれません。書きながら思い出したかのように「そうだ」が自然に入ってくる。三人称のなかの一瞬の一人称がムリなく煌めき、なおかつ効果を意図したような技巧的企みが見えない。

この一文でファンになりました。

ウィキペディアによると、著作は短編のみで、中編や長編はひとつもないとのこと。己の長所や得意なものをわかっていたのでしょう。同列で語るのはおこがましいけど、私も長編を新人賞へ送るのをやめ、毎週日曜に掌編の「ハードボイルド書店員日記」を書いている身です。なんとなく共感を覚え、併せて励みもいただきました。

トリッキーで斬新な物語やキャラクター。それも悪くない。でも時にはおかずの要らない、一杯の温かい白飯みたいな小説もいかがでしょうか?

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