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私が「体育会系」を嫌いな理由

ふと思うところがあり、このテーマに関して最近思ったことを書きます。

プロのライターだから読みやすく書こうとか、言葉を厳選して書こうとか考えず、とにかく思ったことを思ったままに記していきます。クライアントさんも読んでいるとはいえ、これは自分の表現の場ですもの。( ̄▽ ̄)

体育会系が嫌いな理由(1)体育でドヤ顔する人が嫌い

私は自他ともに認める運動音痴です。特に球技とダンス系の運動はセンスのかけらもなく、人生の楽しみの4分の1ぐらいは知らないまま今に至りました。

音楽は大好きなのでダンスもそれほど嫌いじゃないのですが、どうしても踊れないんです。下手に踊ろうとするとダンスとは全く別のアクションになってしまいます。そういう私を見た運動神経抜群な体育会系の人に、これまでどれだけバカにされたかわかりません(涙)。

そんなわけで、体育や体育会系という言葉は私の劣等感をMAXにし、自己肯定感を底辺まで下げるだけ。運動神経が抜群のドヤ顔の人を見ていると、子どもの頃そういう同級生に散々コケにされたことを思い出し、内輪で盛り上がっているウェイな皆さんに殺意すら覚えるのです。

体育会系が嫌いな理由(2)縦割りの人間関係はもっと嫌い

体育会系部活にあるような縦の人間関係は、もっと大嫌いです。たかが学年が1個や2個違うだけでえらそうにふんぞり返る人間がどうしても理解できません。

百歩譲って親子ほどに年が違う、あるいは仕事面で明らかに相手が上ならまだわかりますが、年だけ上で他の面では明らかに自分より劣る人間になぜ理不尽な仕打ちを受けねばならないのか……そう思うとはらわたが煮えくり返る思いでさらに殺意が湧きます。

もちろん処世術としてあからさまにそのようなことを口にすることはありません。幼い時分からしつけに厳しい両親に礼儀を叩きこまれていましたから、心ならずも目上への礼儀は板についています。また、先輩に下手に逆らうとややこしいことになるので、表面だけは礼儀正しく振舞ってきました。

でも、こちらがそういう態度で接していると図に乗るんですよね、体育会系の人って‥‥明らかに偏見ですが。そういうのに遭遇するたびにますます憎悪が募り、まるで体育とか体育会系といった言葉は親の仇のごとき憎き存在になりました。

体育会系が嫌いな理由(3)根性論は才能ある人にしか通用しない

体育会系といえば根性論というイメージが私の中にはあります。年代が年代なので、『巨人の星』『エースをねらえ』あたりが真っ先に脳裏に浮かびます。ちょっと変則的ところで『ガラスの仮面』かな?とにかく努力や根性でなんとかできるという風潮が嫌いなのです。

今挙げた3つのマンガの主人公は、そろって神才能の持ち主です。そういう人はスタート時点から他の人より頭どころか全身が抜きんでているということ。そう、彼らは生まれながらにして雲の上の人なのです。

そんな雲上の方々は努力も人並み以上にできます。根性だって人の何倍もあります。それもまた凡人にはないすごい才能です。そのことに気づいてしまいました。

才能にあふれた人は人並外れた努力や根性への耐性がある。それに努力や根性が実を結ぶ才能にも恵まれている……そこまでくるともう「無敵の人」ですよね。ええ、彼らは神様から愛されているという意味で失うものがない無敵の人たちなんです。

そんな人たちにどうして凡人が太刀打ちできましょう?才能あふれた「無敵の人」たちの前では、凡人のどんな努力も水の泡になり、どれほど根性で頑張っても「無敵の人」には一生叶いません。遅ればせながらこの年にしてそのことにようやく気づいたのです。

そんな凡人こそ努力や根性といった体育会系の考えを捨て、もっと凡人らしく力を抜いて生きた方が楽だと今は思うようになりました。

体育会系が嫌いな理由(4)実は「体育会系」の自分に愛想がつきてしまった

実を言えば、体育会系が嫌いな一番の理由はこれです。努力や根性を盲目的に信じてきた「体育系」の自分への嫌悪感。そんな自分に愛想がつきたのです。

運動音痴でも心は努力と根性の「体育会系」だった私

私もバカだから、長年「努力は人を裏切らない」とか「根性があれば人生の試練を乗り越えられる」なんて信じて疑わなかったんですよ。だから人生の様々試練で耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、生きづらさしか感じないこの人生の苦境から努力で抜け出そうともがいていたわけです。

努力と根性で人生の苦難を乗り越える……それってまさに体育会系の発想ですよね。

でもね、子どもが自立して自分ひとりで育ったような顔をしているのを見ましたらね……

夫が自分だけ好きなことして仕事のキャリアもどんどん上がっていく傍ら、私だけが(もう少し)続けたかった仕事を辞め、家庭に縛られて自分のやりたいことをほとんどせず我慢してきたことに何の意味があったのかな?と思ったら、ものすごくむなしくなってしまったんですよね。

・私が努力して家族のために尽くせば家族はわかってくれる
・どんなに辛くても母親だから根性で乗り越えなければ

そう思って苦手な早起きも早朝のお弁当作りも頑張りました。夫が子どもにノータッチでも「子育てや家庭を守るのは私の仕事」と心得、「なんで母親ばかり我慢を強いられるの?」と理不尽に思う気持ちを努力と根性で抑え込んできましたよ。ええ、かれこれ20年以上も。

これまでの努力と根性は全部無駄だったと気づいた

でも、今になって思えば、そんな努力や根性は全く無駄でした。もっとがんばらないで好き勝手にやってよかったのです。今後悔しても意味がありませんが。

子育てを終えた今いつも思うことですが、子どもは手をかけなくても勝手に育ちます。最低限の身の回りの世話と社会教育を施せば、あとは放っておいても育つものです。

しかし私は子どもが大事すぎて手をかけすぎてしまい、夫に頼らず無理を重ねた結果、ワンオペ育児で体を壊しました。病気のオンパレードになったのもそのためだと医師や周囲から言われました。

しかし、なんでそこまでムダな努力をしてしまったのでしょう?なぜ自分を星飛雄馬や岡ひろみのように追い込んでまで頑張ってしまったんでしょう?そんなことしてもムダだったのに……

そう思ったら、子どもに尽くしてきた私の人生そのものが全く無駄だったと悲しくなり、一時は何もかも馬鹿馬鹿しくなって何もする気になれないほど生きる気力を失いました。

今はようやくそのような心境から脱し、だいぶ心が回復しましたが、そのきっかけは努力と根性がつきまとう体育会系的発想を捨てたことでした……

今日の〆

今日はここまで。とりとめのない話をダラダラと失礼致しました。

その後の話についてはまた後日気が向いたらお話しします。

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