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長谷川麟『延長戦』(現代短歌社)

 第一歌集。現代短歌社賞受賞の作者による。学生生活から社会人になり、結婚を意識する巻末まで、というほぼ時系列に思える構成になっている。口語体を使い、会話体も多用しながら、生活とそれに添う心情が綴られている。家族や友人も一冊の中で存在感を持つ。

それぞれが親の都合であの街にいただけだった少年少女
 大抵の人にとって高校生までの自分の住む場所は、自分で選んだものではない。深く考えることも無く住んでいる人が大半だろうが、身も蓋も無い言い方をすればそれは「親の都合」ということだ。だから地元の学校で出会った友達、あるいは地域の友達は、運命の決めた友人であるとともに、親の都合で出会った友人でしかないのだ。少し醒めた視線に読者もふと自分の若い時代を振り返る。

まだ寒い夜の空気にブラウスを冷やして君が近づいてくる
 暖かい部屋から、主体のところへ来るまでの間に、君のブラウスは冷えてしまった。まだ寒い、のだから晩冬の夜の一コマだろう。夜の温度で少しパリっとなったようなブラウスの布。それに手を触れるまでの数秒の心が読者に伝わってくる。

オルゴールを巻きなおすとき やさしさも力強さも僕に足りない
 ネジを巻いて鳴らすオルゴール。止まったオルゴールを巻き直す時の数秒間の思考。ある程度力は要るけれど、巻き過ぎてもいけない。そんなことを思いながら、優しく巻くことも力強く巻くことも自分は得意ではないと思う。初句二句は具体的な状況なのだが、それを序詞的に取って、三句以降の心情の吐露の歌と取ってもいいだろう。

まぁそれはそういうことではないけれどよそってもらったサラダを食べる
 上句が会話体。何について話しているかは不明だが、人の会話は大体このようなものだ。それはそういうことではない、と言えばその場にいる人には伝わる。また、これは、どのような背景であっても、正しく状況を理解してもらえない時によく抱く思いだろう。ただ、主体はこれを口に出してはいない。心の中で、ちょっと違うんだよな、と思っている。分かったつもりになっている相手に悪気が無いのも知っているから訂正するほどでもなく、その相手がよそってくれたサラダを食べている。

自転車が捨てられている 捨てるにも勇気がいるなと思ったりする
 どういう理由でか捨てられている自転車。自転車を足代わりに使う者には、捨てられている自転車は気になるものだ。まだ乗れるんじゃない?と思ったり。まだ乗れるのに捨てるなら勇気がいることだろう。思い切って何かを捨てるのは勇気がいる行為なのだ。物であっても、そうでなくても。結句の「~たりする」が細かい心理を表している。文語体の助動詞に当たるものではないだろうか。

生きづらいという謎のマウントを取り合っているように梅雨、紫陽花は咲く
 「生きづらいという/謎のマウントを/取り合って/いるように梅雨、/紫陽花は咲く」八八五七七、と取った。しかしより自然には「生きづらいという謎のマウントを/取り合っているように梅雨、/紫陽花は咲く」と三句のように読んだ方が読みやすい。といって自由律でも無いだろうし、韻律の解釈に迷う。どっちが生き辛いかでマウントを取り合っているようなSNS社会を、場所取りをするように咲く紫陽花に喩えて詠っている、この内容はとても好き。特にマウントを上に向かって取るのではなく、下向きに取ることを「謎の」で表したところに主体の言いたいことがこもる。空いた場所を求めて下向きにも容赦なく伸びる紫陽花が合っている。

自主性に欠けているから夢だって見ないし、浜に咲く青い花
 この「夢」は願望という意味の夢(寝て見る夢ではない)と取った。言われた通りにいい子で過ごしてきた人が、ある程度の年齢になって、自主的に動けと言われる。特に高校時代までは親や教師の言うことを聞くのが基本だったのに、大学生や社会人になったら急に自主的、と言われて戸惑うことがある。そんな時、自嘲的に呟いてしまいそうな一首。四首の句割れで、その自嘲が本心で無いように取れる。結句の花は夢という形では表さないが、自分の心の中の大切なものなのだろう。

元気だけが取り柄です。って流行りそう 逆にね。分かる。分かる街並み
 元気だけが取り柄どころか元気があまりない。それなのに、元気だけが取り柄ですというアピールが流行りそうに思う。それが分かる。そういうのが自分たちに求められてるし、そう振舞ってしまうんだろうな、という友人同士の共感の会話と取った。結句の「街並み」はその会話をしている時に目に入ってきた風景であり、自分たちの状況を作っているものであると読んだ。

笹船だ 川の流れははやくって悲しいと言えばなんだってそう
 笹船が流れてきた。あっという間に下流に流されてゆく。川の流れは速くて何でもあっと言う間に過ぎ去ってしまうのだ。それを見ながら、下句の感慨が浮かんで来る。何だって悲しいと言えば悲しい。だから、その感情は川に流れて行くままにしておく。それが何であっても、つかまえて分析することなどできない、あるいはする気になりがたいのだ。

翡翠がいますと表記のある川にぽつんと掛かっている沈下橋
 川の流れが激しくなると沈んでしまう橋。欄干も無い、簡素な作りだ。各地に有名な橋があるが、これはあまり有名な橋ではなく、「ぽつんと」という印象で掛かっているのだろう。翡翠がいる、との表記はその川が清流であることを示唆している。その華やかな姿が一瞬読者の頭に浮かんで宙吊りになる。表記にはあるが、翡翠の姿はない。見せ消ちだ。橋は今、主体に見られているだけだ。静かな山の中の景が浮かぶ。簡素で清冽な景に主体の心情が重なる。

現代短歌社 2023.7. 定価:2000円+税

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