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蝉の声を聞いてはっきりと落ち着くようになったのは、この夏のことだ。
山にかこまれた故郷では、騒がしいほどそろって鳴き続ける声と、ジリジリとした暑さの到来は、当たり前にセットでやって来た。
蝉が鳴き出すと無意識のうちに、あぁ梅雨が明けるんだ、と本格的な暑さに身構えたものだ。
これが、東京にきてからなくなっていた。だから夏が来た実感が湧いていなかったのだ。

谷中霊園の並木道。
陽と蔭とのコントラストが、ここでは特別に、活き活きと浮き彫りになっている。
汗ばんだ肌の熱も、髪を揺らす風の輪郭も、はっきりと意識させられる。
生きているものの息づかいが、活きているのだ。

ここには、日本を支えた多くの政治家や文豪、芸術家が眠っている。
ふと、徳川慶喜のお墓で手を合わせよう、と思いたった。
特に歴史好きでも、何かの信仰があるのでもない。
こういう、なぜかわからない思いつきというのは、まったく、人間に固有のものだ。生き物に固有、と言った方がいいのかもしれない。
様々な感動や感慨が、重なり、融けて現れた、とくに合理的でもない「気まぐれ」というのは、シンギュラリティを超越しようとも、コンピュータには真似のできないものだろう。

ミーンミンミンミンミンミン……

いろんな墓がある。
背が高く黒艶の風格のある石、どっしりとした乳白色の粗く優しげな石。彫ってある字体も色も様々で、ただ大きく「静か」とだけ刻まれた墓石もあれば、入り口にお城の門のようなアーチを作ってある敷地もある。
どの墓も、誰かがその人を想って建てたのだ。
場所、墓石、文字、敷地に敷く砂や石…、どんな気持ちで選んだのだろう。ひとつひとつの墓の前に、主を愛した人々の姿が見えてくるようだ。

スマホを確認しながら、目的地へと歩く。しかし、墓が Google Map に載っているとはさすがである。
着いた、と思った地点には、なにやら家を囲うような塀の前に案内板が立っていた。なるほど、かの徳川慶喜の墓ともなれば相当立派なものらしい。ここは入り口のちょうど真裏のようだ。
これは大豪邸だ。まるで住宅街で友達の家でも探すようなつもりで歩いていた自分がなんだかおかしくなって、ふふふと笑いがこみ上げてきた。

墓地は穏やかで、しんとした空気を蝉の声が賑わしている。
まるで時間が止まっているようだ、とほんの一瞬思いかけて、すぐに首を振った。
色々な時代の時間が流れている。費やした時間が戻ることは決してないけれど、ここでは流れた時間が、同時にすべて詰まってゆくようだ。
青空の向こうに高いビルが見える。30階以上はある高層マンション。
あそこの時間は、行ったきり戻ってこない時間だ。いつの人も、そうやって生きている。
あそこでは、この蝉の声は聞こえない。もしカレンダーがなくなったら、夏が来ていることにどうやって気づくのだろう。
私が今住んでいるのはあの中なのだ。現代という言葉の指すものは、常に動いている。皆、現代の連続の中に生きている。なんだか不思議な気持ちだ。

私は、研究者の卵である。この世界ではしばしば「ひとつの大発見、大きな進歩は、大勢の屍の上に成り立っている」と言う。
ずっと、言いたいけれど言い切れないことがあった。でも今なら言い切れる。
何物も、屍の上に成り立っているのではない。
生の中に、生の先に、生まれたものだ。

後になって語られる出来事というのは、地球だったり、日本だったり、血縁だったり、何らかの共同体をなぞる上での史実にはなる。
しかしそれらは、人生の記述ではない。個人にスポットを当て目を凝らしたものではない。
生きた時間を活き活きと記せるのは、当人だけだ。その手記は計り知れない枚数の原稿に渡り、それでも、言葉にし尽くせないはずだ。
そしてその活きた生の輝きは、何人にも等しく存在する。

生きた時間が違えど、同じように胸を弾ませ、締め付けられ、奪われたはずだ。また、同じ音を聞いて同じ風に当たり、異なる感動を得たはずだ。
そんな瞬間は間違いなく、誰にでもたくさんあるだろう。
遠藤周作の『沈黙』という小説では、作中を通してずっと変わらないものがある。『嗄れた蝉の声』という表現。「しわがれた」蝉の声が聞こえたことは、私には一度もない。でも彼には何度も、そう聞こえた瞬間があったのだろう。文章に遺すということは、ほんのすこしだけ、人生を記述することになる。

徳川慶喜の墓は、金の紋章の入った高い門の奥にあった。誰かが刻んだ墓石の文字は、ここからは遠すぎて読むことができない。

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