見出し画像

【知られざるアーティストの記憶】第48話 食生活と彼

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第7章 触れあいへ
 第48話 食生活と彼

彼の食生活に対する優先順位はとても低かった。食の愉しみというものを、およそ知らない人であった。その最大の要因は、食を楽しむゆとりなど皆無である懐事情にあるように思われた。

彼の収入源は、両親が掛け続けてくれた国民年金のみである。家は持ち家なので家賃は発生しないが、地主さんに毎月支払う地代と、固定資産税がかかる。収入のあった弟のマサちゃんと生活費をどのように分担していたのか、マリには定かではないのだが、おそらく地代と固定資産税に加え、光熱費も彼が支払っていた。食費はそれぞれが自分の食べるものを買ってくるスタイルだった。家事はすべて彼が行っていたので、家事に必要な消耗品も彼が購入した。

その中で、食費にかけるお金などほんのわずかしか残らない。もちろん外食などという選択肢があるはずもないし、出来合いの弁当も買わない。お菓子やフルーツ、酒、たばこ、お茶類などの嗜好品も一切なし(いや、彼が唯一買う嗜好品はバナナであった)。生きるために必要な栄養素やエネルギーをいかに安価に摂るかだけが目的のような食生活なのだ。

そのため、新聞も取らないしスマホも持たないのに、近所のスーパーの安売り日をマリよりも心得ていた。あっちのスーパーで野菜が安い曜日、そっちのスーパーで揚げ物が安い曜日などには必ずのように自転車で買い出しに行った。惣菜を買うこともなかったが、揚げ物、特にアジフライが好きで、たまに買ってきてはサンドイッチにして食べた。その他の基本食材は「業務スーパー」で買い集めた。


©Yukimi 遺作『未来へのレクイエム』より


彼にとって優先順位がもっとも高いもの、それは他でもない「創作」であり、その時間を確保することが彼の毎日の最優先事項である。よって、彼の食生活の優先順位を下げる二番目の要因は、「それになるべく時間を取られたくない」ということであった。彼は家事にもなるべく時間を取られたくなかったが、潔癖症に近い性分のため、家事をやらずにもいられなかった。一年中、葉や花芽や鞘を落とす槐の木も、実は彼の創作時間を奪う存在として疎ましがっていたが、それでも彼は屋根や庭や道路に降り積もるそれらをそのままにしておくことはできなかったのである。したがって、経済的理由で惣菜も弁当も買わずに三食手作りをする上で、彼は効率を重視した。

「前はよくカレーを作って毎日そればかり食べていたんだよ。野菜と肉が摂れるから。でもあるときから体が香辛料に過敏になって、今はシチューにしている。」
おそらく彼はシチューを美味しいと感じて食べてはいるのだが、それがご飯に合うのかどうかなどには無頓着で、考えずに流し込む。頭の中は創作のことでいっぱいで、食事はクイックに腹を満たせればそれでいい。

どこかで一袋のおからを手に入れて来ては、大きな土鍋で一度に炊く。具はひじき、にんじん、冷凍の枝豆。彩りは綺麗だが、食べさせてもらうとものすごく薄味だった。何で味をつけたのかと訊くと、「だし醤油」だと言う。塩が苦手で、「塩分の強いものを食べると顔に発赤ができる」と主張する彼の作る料理は、どれも極めて薄味なのであった。鍋一杯にできたおからはいくつもの大小のタッパーに入れられ、冷凍される。そして毎朝、彼はお碗によそったご飯の上にそれを乗せ、さらに味付なしの納豆を乗せて掻き込むのだ。

この朝食の内容は、質素でクイックでありながら、健康的でもあった。優先順位は決して高くないながらも、彼の元来の気質としての自然派志向が、「どちらかと言えば健康志向」である食の選択に反映されていた。

彼の食生活を語る上で、極めつけはその調理法である。彼が料理をするときの唯一の熱源は「電子レンジ」なのであった。それは、料理の時短と、換気扇の掃除をしなくてすむという家事の合理化を同時に実現することのできる選択であった。彼は野菜も肉も魚も、単独または組み合わせて電子レンジで加熱し、おかずを作るのだ。そして、加熱調理に使ったタッパーをそのまま食器として使う。陶器の食器も持っているのに、母親が亡くなってからはすべてビニール袋に入れて仕舞い込んでしまったのだ。ガスコンロの使用をやめたのも母親が亡くなったタイミングである。マリは、彼の食生活に意見するつもりはさらさらなかったが、食器代わりにタッパーを使うことだけは、食生活の荒廃の最終形のように感じられ、ことさら胸が痛かった。


©Yukimi 若い頃の作品『LAGRANGE POINT JMN-003』より(年代不明)


質素でわびしい彼の食生活も、内容的にはそんなに酷いものではないように見えた。主食にはご飯を炊いて毎日2食ないし3食は食べていたし、自分一人のためにキャベツでもレタスでも丸一個を買ってそれを食べきるほどに、野菜も多く食べていた。肉や魚は夕食では必ず食べるようにしていたので、バランスも悪くなさそうだった。ただ、彼が業務スーパーで買っている、マリが目を疑うほど安い食材は、この国で手に入る食材の中でおよそ底辺の品質ではないかと思われた。

彼の裕福ではなさそうなことは、マリにだって一目見れば想像がついた。
「地主のYさんは時々、私に焼き芋を買ってくれるんだよ。私が貧しいから。」
季節になると彼の家の前に一日中トラックを停めている焼き芋屋さんをちらっと見やりながら、彼はそう言って愉快そうに笑った。

彼の食生活の内情が明らかになるにつれ、料理をさほど得意としていないマリも、手料理の差し入れで援護射撃をせずにはいられなくなった。豪勢な料理や手の込んだ料理はできないが、彼のあまり作らない味の染みた煮物や、電子レンジにはできないしっかり焼き色のついた焼き物、そしてたまには揚げ物などを、工夫しながら彼に差し入れた。彼はマリの手料理にさほど感激する様子もなく受け取って、黙って食べた。たまに食事中に行くと、彼はマリが差し入れたおかずもタッパーからそのまま食べていた。彼の意外にもむしゃむしゃとした食べ方は、普段の、物を食べることも排泄もしないのではないかと思われるような上品な仕草や振る舞いとは、妙に似つかわしくなかった。

「私はそんなにガツガツたくさん食べる方じゃないから。」
確かに、彼の食は細かった。マリが頻繁に届けるおかずは、マリが想定していたよりもずっと長く彼の冷蔵庫に留まり、いつの間にかタッパーの集落を形成していた。
(もっと美味しいうちに食べちゃって欲しかったのに……。)
とマリは切なく思った。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

この記事が参加している募集

ノンフィクションが好き

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?