【知られざるアーティストの記憶】第43話 F町での体験と彼の病気
Illustration by 宮﨑英麻
第7章 触れあいへ
第43話 F町での体験と彼の病気
彼が30代の時にF町で体験した揉め事とは一体どういうものだったのか、彼はその真相を少しずつマリに明かし、この頃にはほぼすべてを話し終えていた。
「あそこは私のお祖父さんの持っている土地だったの。お祖父さんが私の父に、『あの土地はマサにやるから、好きに使っていいよ』と言ってくれたんだよ。」
その土地で彼は、一人で小さな小屋を建てて、自然農を営みながら漫画を描くという人生設計の拠点を築こうとしたのだ。彼が「自分の描きたいものがやっとわかった」と語った年齢が28歳。この小屋の建設に彼が取り掛かったのも、F町で資材を買い求めたレシートの日付によると、彼が29歳になる直前くらいであった。次々に資材を買い求めた勢いからは、嬉々として小屋の建設に精を出す姿が目に浮かぶ。
小屋にはトイレだけは付いていたのだったか、6畳一間のミニマムな造りではあるが、おそらく彼はこれをほぼ一人で建てたのだと思われる。車を運転しない彼は、資材は資材屋さんに届けてもらったと言うが、それ以外にどのくらい人の手を借りたのかは不明である。たった一人で小屋を建てることなど、果たしてできるものだろうか。
マリがその場所を初めて訪れたのは、彼が亡くなった後のことだった。現在はF町を突っ切る国道の真下の、湖に続く斜面の藪の中であった。緑の葉の間から、キラキラ陽光を反射する湖面の美しい、静寂な場所であった。35年以上の時を経て、彼の作った小屋は彼のような顔をして、黙ってそこに立ち続けていた。
その小屋の真上にあたる国道沿いに、彼が言っていた「S」という苗字の表札を掲げる古い家があった。彼の言った話と、のちに親戚たちから聞いた話を総合すると、その家に住むSさんが、彼の土木工事と小屋建設の全てに対して文句をつけ、やめさせようとした。そればかりか、彼の敷地に大きなゴミを投げ捨てたり、せっかく作った作物を勝手に刈り取ってしまったりなどの嫌がらせもしたという。Sさんの主張は、「その木を切ったら山が崩れてしまう」というようなこともあったらしいので、いったいどちらの見立てが正しかったのかはわからない。もしかすると、町育ちの若い彼には思い至らなかった山の摂理があったのかもしれないし、彼のやり方は正しかったのにSさんが難癖をつけたのかもしれない。その部分は今や闇に包まれたままだ。
Sさんは最期、何かのご病気でドクターヘリで運ばれた末、「苦しみながら死んでいった」のだという。彼がSさんの名前を語るとき、「苦しみながら死んでいったSさん」とまるで枕詞のように必ずその言葉を冠するのが、マリにはひどくいたたまれなかった。お願いだから、その言葉をあまり口にしないでほしい、と感じていた。
彼とのコミュニケーションが取れなかったSさんは、彼のお祖父さんの六男である叔父さんに文句を言い、叔父さんが間に挟まれる形となった。叔父さんも彼に小屋の建設を止めるよう助言をし、彼は親戚中から孤立することとなった。こうなると、契約書を交わしていない口約束というのは弱い。「そういう時代」ではあったにせよ、だ。六男の叔父さんの、
「ありゃあ違法行為だった。」
という言葉にノリオさんも頷いていたし、マリにも彼をかばうことはできなかった。しかし、小屋はもう出来上がっていた。
「あのときに、父親がちゃんと権利を主張してくれればそれでよかったんだ。それなのに私の父は最後の最後で引き下がっちゃったんだよ。」
資材購入のレシートの最後は1985年9月、彼が32歳になる手前の日付であった。その後、1989年、彼が36歳の時に、この小屋で引いていた井戸水の水質調査を受けているので、トラブルの末に彼がF町を撤退したのはそのあとなのかもしれない。一途な彼の絶望と、父親や親戚たちに対する不信は想像に難くない。
この大きな挫折の傷を、彼は未だに癒すことも手放すこともできずに抱え続けているようにマリには感じられた。その直感は、彼から繰り返しこの話を聴くたびに確信へと変わっていった。
「あなたから見て、私はどのように感じられますか?」
マリはあるとき、唐突に彼からそう質問をされた。その場では十分に答えられなかったので、いつものように手紙にしたためた。
この手紙の日付は、彼が血液検査の結果に打ちのめされた9月16日になっている。マリは彼を励まそうとしてこの手紙を書いたものと思われるが、入浴剤のプレゼントに添えたこの手紙に彼が気がついたのは数日後であった。
「あなたが書いたのを読ませてもらったよ。入浴剤と一緒に入ってたやつ。あなたの指摘する通りかもしれない。でも、私はどうすれば?」
そう彼が問うてきたのは、愉気を始めて4日目の2021年9月20日のことであった。
「これから先のことだけを考えればいいんじゃないですか?」
「これを読んだら、キミを抱きたくなった。」
彼はマリを見つめてそう言った。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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