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#1 本についての愛を語る

 先日愛に関して自分の中で再定義しようと思い、ソロプロジェクトを立ち上げた。で、初回は何について書こうかな、と思って考えあぐねていたのだが、結局本について語ろうということで(勝手に自分の中で)落ち着く。

 いみじくも、わたし自身は元来とても飽きっぽい人間で、良い意味で解釈すれば好奇心旺盛ということになるかと思うのだが、その中でもほぼほぼ唯一と言って良いほど自分の生活の中に溶け込んでいるのが、である。

 そもそもわたしが本を読むきっかけになったのって何だっけ?と思った時に、ふと記憶を巡らすとたぶん20年以上前のことになろうかと思う(歳がバレますね)。母が元々本好きで、どうやらわたしを文学好きな子どもに育てようとしたことが発端らしい。

 当初は絵本を読んでもわたしがひたすら泣き通しで苦労した、というエピソードを聞くたび胸が苦しい。どうしようもない悪ガキで、親が迎えに来る時に綺麗な服装でいたことは稀だったと、今でもチクチクと刺される。

 ところが、小学校に上がった頃くらいに近所で昔話を語る女性のもとへ通うようになり一変したらしい。彼女は、カンペを見ることもなく2時間続けて自分自身の言葉で物語を紡いだ。当時のことは朧気でしかないが、彼女が語る物語は確かに現実味を帯びていて、飽きなかった。

 一挙手一投足に目を奪われ、まるで自分が物語の主人公になったような気分に陥った。もうその時点で、母の術中にはまっていたのである。

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 それからのめり込むように本を読んだ、ということにはならない。とりあえず小学生の時にわたしが好きだった本といえば、ミヒャエル・エンデの『モモ』やJ・R・R・トールキンの『指輪物語』、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズなどファンタジーなどが中心。あとは、はやみねかおるの『名探偵 夢水清志郎』シリーズ、那須正幹の『ズッコケ三人組』シリーズなんかを読んだ。

 あと、あれなんだっけなーと魚の小骨が挟まったかのように思い出せなかったのが、『地獄堂霊界通信』シリーズ。当時オカルトがやけに流行っていて、「花子さんがきた!!」だとか「ゲゲゲの鬼太郎」だとか「学校の怪談」だとかよく観ていた。今考えると、ホラーに囲まれた生活をしていた気がする。なーんか、よくわからないけど楽しかったな。

 思えば、過度にそうした「目に見えないもの」の存在といったものに触れる機会があったせいもあって、少しずつ少しずつ周囲に漂う見えない空気の流れのようなものを感じたいと思うようになったのかもしれない。

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 中学生になってからは部活動に打ち込むようになり、一旦読書熱はふっと火が消えたようにおさまった。学校の授業では国語と英語が得意で好きでもあったけれど、その頃はどちらかというと漫画やらゲームやらに熱中した時期だった。月日はさらに流れ、高校へ進学してから読書熱が再燃。

 単純にその頃利用していたスクールバスが、家まで1時間ほどかかるといったところが起因している。暇を持て余したこともそうだし、その当時一緒に隣の席で喋るようになった子が本好きだったということもきっと関係しているなと今では思う。気がつけば東野圭吾の『探偵ガリレオ』をきっかけにして、さまざまな小説を読み漁るようになっていた。

 大学へ進学する際に専攻としては色々と思い悩んだものの、その時わたしの頭の中にあったのは「文学」×「海外」の二つで、将来のことを考えずに英米文学を選択した。今思うとなんと浅はかな考えか、と突っ込みたくなるけれど、結果的には悪くなかった未来だったように思う。

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 大学に入って最初に課題図書として出されたのは、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』。その当時はおわ、クラシック!!なんてことを思っていた。もっと今風の明るい物語を読みたい、と斜に構えたスタンスで反発していたのだ。かけ離れた年代の作品に、固定概念を持っていた。今考えると、おかしな話だ。

 いざ大学の生協で買って、ひとり自分の部屋でうつらうつら読んだ時のことを今も思い出す。気がつけば、毎日寝不足になるくらい課題本を読むことにのめり込んで、自分の中にあった時限付きのくだらない価値観なんてものが吹き飛んだ。

 クラシックと言えども、侮れない。どころか、なんて自分は薄っぺらな人間なんだろう。田舎から上京してきて正直浮き足立っていたところもあったのかもしれない。

 それでも大学生活はそれなりに誘惑に満ち溢れていたし、何か新しいことが始まる兆しがあった。少なくとも、そうしたグラつかせるような新たな価値観のもとでわたしは文学を貪り、見も知らぬ人たちの生き方をその身に刻んでいったのである。

 さらに月日は流れ、わたしは社会人になり、荒波の洗礼を受ける。当時希望もしていなかった部署に配属され、ひーこらひーこら言いながら荒れ狂う雨嵐を凌いでいた。その時に支えてくれたのは、わたしの周りにいた友人たちの存在であったし、何よりも物語の主人公たちの存在だった。

 波瀾万丈の人生を歩む彼らに比べれば、わたしが直面している出来事などなんて瑣末なんだろうと思った。思えば本を読んで得たことというのは、世の中をうまく生きる術だったように思う。この思い通りにいかない世の中で、それでも懸命に自分の道を見出そうとする彼らの姿は、どこか理路整然としているように見えても全く合理的でなかった。

 これだけ文明が発達した今の世でも、わたし自身は電子書籍ではなくて紙で読む方が好きで。それはこれだけ見通しのつかない不確かな世界の中でも、確かにその存在を感じたいという気持ちの表れかもしれなかった。

 例えばわたしの世界から本がなくなったとして、それでも生きていける自信はあるけれど、それはきっと味のしない無味乾燥な食事と同じだと思う。いくつものスパイスがあることで、わたしの時間が彩られていく。

 本のある満ち足りた生活を誰かは愛と呼ぶのかもしれないし、新しい価値観を与えてくれるものを愛と呼ぶのかもしれない。とりあえず、人が長い歴史を経て勝ち得た読む自由に、わたしはどっぷり浸かっている。

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