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不確かな壁の向こう側

 昨年は4月ごろに大きなテレビを買い、その反動でテレビに齧り付くようになり、そして今年もまた絶賛Netflixで韓国ドラマを見る日々が続いている。おかげで、普段仕事をしている時や友人といる時驚いた時なんかは、チンチャ!?(本当?)と口に出してしまうくらいである。(ちなみに今は『二十五、二十一』というスポーツ爽やか系ドラマを見ている。主人公は変にど根性丸出しじゃないのがまた良いのです)

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 一方で、なぜか何かをやる気力も今年に入ってからメリメリと迫り上がってきており今年は早速村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んだ。6年ぶりの新作だそうだ。前回は、『騎士団長殺し』を読んだのだが、なぜかその時私の中で本作品はハマらなかった(ハルキストの方々、ごめんなさい)。でも、改めて今回新作を読んだらフイと頭の中に浮かび上がるものがあり、興奮冷めやらぬままこうして筆を取った次第。

※注
この時点で『街と不確かな壁』を未読の方かつ将来的に読む可能性のある方、以後は#ネタバレが含まれる可能性がございますので、必要に応じてそっとPCを閉じてください。

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 ざっと簡単にあらすじを説明すると、本作品の語り手はだいたい40歳くらいのミドルエイジ男性で、彼は高校くらいに突然いなくなった女性のことを思い続けている。そしてなぜか彼は、そのいなくなった女性がここではないどこかで今も生き続けていることを本能的に知っている。そしてその想いが叶ってか、女性がいる不確かな壁のある世界へと迷い込み、そこで記憶を失った彼女のそばで<夢読み>を行う、といったもの。

 ちなみに今回の作品、長編小説というだけあって全て読み終わるのにかなりの日数を要しました。村上春樹自身あとがきでも書いているが、元々はデビュー初期の頃にその原型はあったそうだ。どうりで、そこかしこに過去彼の出した作品の面影が見て取れるなと思いながら読んでいた。

「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」ときみは言う。

『街とその不確かな壁』p.8

 例えば、今回のキーテーマとも言える、過去出会った少女に対する一途な感情。思春期を少し過ぎた大人ならともかく、40歳になってもその思いをずっと抱えたまま生きるのって、ものすごい純粋だと思うし、もっというとどうしたらその思いをずっと持ち続けることができるのだろうと尊敬の念さえ感じる。でもそういえば、『ノルウェイの森』の登場人物たちも誰かしらをずっと思い続けている人たちが出てきていて、もしかしたら通ずるものがあるのかもしれない。

 印象的なのは、確かに主人公と主人公が愛した女性の間には着実に時が流れているということである。回想する場面では「ぼく」と「きみ」、そして現実世界においては「私」と「君」。そうした呼称を使い分けることによって、主人公が大人として生活していることを想起させる。

 一方で幻想世界にも、何かを匂わせるようなオマージュ的事柄が登場する。りんご(これはどうしてもアダムとイヴが楽園で食べた原罪を連想させてしまう)だとか、秒針のない時計だとか(これはおそらく両者の世界を結びつける役割も有しているし、ある意味いなくなってしまった少女を体現しているようにも思えた)。これが読んでいくと、考えが派生していくので結構面白い。もしかしたら記憶の曖昧さといったものが合わせて表現されているのか。

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 そして、もう一つが「影」だ。

 不確かな壁に囲まれた世界においては、門衛なる人が最初に立ちはだかり、扉の向こう側へ行くには自身の影を置いていかなければならないという。主人公は逡巡した上で、影を壁の向こう側に置いてくる。主人公は影を気にかけながらも一度は図書館で<夢読み>をしつつも、時々は影の様子を見に「影の囲い場」と呼ばれる影とその主人が交流できる場所へ足を伸ばすのである。

 でも果たしてその世界において切り離されたのは影なのだろうか、それとも実在の方なのだろうか。読んでいるうちにどんどんわからなくなってくる。そして結局中盤において主人公は望んでないにも関わらず、かつて愛した女性のいる幻想世界から現実へ戻ってくることになるのだが、そこでもさまざまな少し変わった人たちと巡り会うことになるのだ。 

 そして現実世界で主人公が出会った人との会話の中で、ふいにガルシア=マルケスの本について言及する場面が出てくるのである。ガルシア=マルケスといえば、おそらく『百年の孤独』が有名かもしれない。実はつい先日(これまたリアルタイムだが)、ちょうど『百年の孤独』を読み終えたばかりでかなり記憶が新しかった。

 ブエンディア家の百年間について描かれているのだが、登場人物はどれもこれもが曲者揃い。基本的にブエンディア家は何かに呪われているかのように奇妙奇天烈な人々たちの旗振りのもとで没落していくのである。

 まあ正直なところあまりにも登場人物の名前が似通っていて、途中で訳がわからなくなってしまうのはさておき、『百年の孤独』においても、『街とその不確かな壁』と同じように死者がまるで生者であるかのように振る舞う場面があるのである。

 一方『街とその不確かな壁』で紹介されているのが、ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』。作中では、同じく幽霊が出てくる箇所が少しだけある。確かにこちらの方が、今回の作品のもともとのテーマに近いところはあるかもしれない。長く抱き続けた純粋な愛情。それは見方によると、普通は大切な人がいなくなると、他の人に感情の置き場を持っていくことで薄れていくのだが、そうならないところにある種の感傷を引き起こすところがあるのかも。

 幽霊との邂逅により、ますます現実と幻想の世界の境界線が薄れ、もっというと実在するものと影の関係性についても曖昧になってくる。ここまで読んでふとした拍子に思いだしたものが、キルケゴールやサルトルに代表される「実存主義」である。「実存より本質に先立つ」という言葉に代表されるように、それぞれの本質は自分自身で決めるという考え方。

 そうだとすると、ある意味主人公がかつての青春時代を過ごした少女との会話の末に交わした言葉が、そのまま何十年にわたり彼の中で具体的な像を持つに至ったのではないか。それはやがて実現する世界として表出され、サヴァン症候群のる 少年との出会いにも繋がっていくように見えた。(ちょっと概念として間違っているかも)

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この現実が私のための現実ではないという肌身の感覚は、そこにある深い違和感はおそらく誰とも共有できないものだ。

『街とその不確かな壁』p.190

 今見えている世界は、果たしてそれが現実だと誰が言えるのだろうか──。

 そのことを実際に証明することは難しい。過去の偉人たちも、同じように頭を悩ませ、自分が今見えていることの正しさを証明しようとした。でも、それはまだ見ぬ未来を想像することと少し似ているのかもしれない。

 今の自分と、その影となりうるもう一つの自分が入れ替わる可能性は十分にありうる。それは複数の理想としたい自分がいて、そこに寄せていく感覚にも似ているのかもしれない。

 だから、例えば理想とする自分自身が、こことは異なる世界に本当に実在していて、今も時間の概念とは関係ない世界に実在すると仮定するのであれば、少し呼吸するのも楽になるのかもしれない。秒針がチクタクと音を立てる時計を見て、私はため息をついた。

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 ここまで書いてみて、やっぱり村上作品はその全てを推し量ることは難しいと感じました。なんといってもかなりのボリューム!

 『1Q84』もまた異なる意味で示唆性に富んだ作品でしたが、今回の『街とその不確かな壁』は一度原点に戻った作品であるように感じます。新年明けて初めての読書としてはなかなかに壁が高かったですが、なんとなく少し頭を整理できた気がして、良い一年を迎えられそうです。

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