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水餃子で祝う母の実家のお正月♪ひいおじいちゃんの話

母の実家は、親戚が集まる日には必ず「水餃子」を作って食べる家でした。

お正月は日本のおせちも少しはありましたが、やはりみんなで水餃子を作りました。

母方の曾祖父が、中国のお友達から習ったのだそうです。

曾祖父は南満州鉄道(満鉄)の駅長をしていました。

静かで優しいおじいちゃん、目ヂカラはとても強いひとだったと、子ども心に記憶しております。

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曾祖父が満洲に渡った理由というのがつらい話です。

曽祖父の火の不始末から、学びの場の寺子屋で火災が起きてしまいました。

満洲で一旗上げて、償いをしなければ!」
申し訳なさから、曾祖父は満州行きを決意します。
(弁償することができたそうです)

また、満洲では仲良く交流をしていた中国人も少なくなかったとのこと。

曾祖父は中国の友人の家を行き来しているうちに、大好きな水餃子の作り方を習得しました。


そして曾祖父は、太平洋戦争勃発以前に、突然、満鉄を自分の意志で辞職したそうです。

家族を連れて実家のある山陰地方に帰り、50歳前の若さで隠居生活を始めたと聞きます。

自分たちが食べるだけの畑や田んぼを耕し、豚や鶏も飼って、ほぼ自給自足の生活を始めました。

私は難しい話は苦手ですが、叔父の話によりますと、曽祖父は
「大東亜共栄圏」の構想をアジアの共存ととらえていたそうです。

日本による侵略の色が濃くなったことに対し、非常に落胆し、悲しみ、そして、ひっそりと家族を連れて田舎に帰ったとのことでした。

当時の満洲(現在の中国の東北地方)


もしも、敗戦後に命からがら帰国ということになっていれば、
曾祖父は殺され、曾祖母は残留婦人、祖母たちは残留孤児になっていたかもわかりません。いや、もしかしたら全員生きていなかったかもわかりません。

曾祖父は82歳で亡くなりました。もう50年以上も前のことです。
その日はめずらしく「ちょっと調子が悪い」と、床に伏していたそうです。

祖母(曾祖父の長女):「お父さん、お粥でも作りましょうか?」

曾祖父:「ああ、お粥か、楽しみだね。」

お粥を持って行くと、もう息がなかったそうです。
亡くなる様子までが静かな人でした。

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ひいおじいちゃんの話をもっと聞きたかったなぁ…

中国の人たちと仲良く交流してくれていたのが、とても嬉しかったです。

「ひいおじいちゃん、ありがとう。」


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