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語り得ない言葉を、読む——梨木香歩『家守綺譚』、山本昌代『応為坦坦録』

拝啓

葉のうえにそそぐのが霖雨ではなく沛雨であることにため息がこぼれます。折節の移ろいは、もはや来し方のおもむきなのでしょうか。

向田邦子が「う」の抽斗を大切にしていたように、あなたも大きな「お」の抽斗をお持ちのようですね。ただ、書評というには身構えて、読書感想文には想念多く、推薦図書も出たとこ勝負、ならば読書日記にしてしまえ。誰でもすなる日記といふものを、われもしてみむとてするなれば、継続こそが力なり。

約150日分、すべて拝読しました。それで、あなたが高原英理『詩歌探偵フラヌール』や斉藤倫『ポエトリー・ドッグス』を楽しんでいることを知ったのです。まさに「同じ書物を読む人は遠くにいる」ですね。

そんなあなたが教えてくれた、梨木香歩『家守綺譚』をさっそく取り寄せました。ただ、そのときに一つ気になったのです。なぜ「奇譚」ではなく、「綺譚」なのか。「奇」は「綺」に置きかえられるとはいえ、その真意はどこにあるのだろう?

ときはおよそ100年前。文士として身を立てようと決心した綿貫征四郎が、亡き友・高堂が住んでいた家を預かり暮らすことに。和風の庭で百日紅さるすべり木槿むくげが四季それぞれの表情を見せる。床の間の掛け軸から舟にのって高堂が現れたり、懇意の和尚のもとに出かけて狸に化かされたり、庭に小鬼が遊びにきたり。あらゆる「生けるもの」と征四郎との慈しみある交わりを一年をつうじて描いた物語です。

こんな不可思議なことがあったのですよと語るならば、たしかに「奇譚」でしょう。しかし、この物語では、亡くなった高堂が生家に現れることも、百日紅に声をかけると応えてくれるとも、河童かっぱかわうそがあらわれることも、ごく当たり前のこととして描かれています。100年前とはいえ、非科学的だ、超常現象だとさわぐこともない。当時はそうやって、人は動植物や精霊、自然現象もひっくるめて、ともに生きていたのでしょう。

しかも、征四郎がおぼえる季節感を、作家は最小限の言葉であらわしている。天候や寒暖、明暗などを、まるで人工甘味料のような擬情の言葉で描こうとはしていない。最後の一文、そして余白に、折節の趣をたくしています。詩情という言葉でさえ、かえって華美に思えるほど、純朴な言葉が紡がれている。だから「奇譚」ではなく「綺譚」だったのですね。思いがけず読書の愉悦に浸り、すぐさま続編の『冬虫夏草』も手に取りました。

あなたがハン・ジョンウォン『詩と散策』から『家守綺譚』を連想したように、わたしが『家守綺譚』から想起したのは、山本昌代『応為坦坦録』です。

応為は、もちろん江戸時代の絵師・葛飾北斎の娘。応為が雅号で、名は栄。杉浦日向子のマンガ『百日紅』や、朝井まかてが好きなら『くらら』でずいぶん知られるようになりました。ただ、『応為坦坦録』が発表されたのは40年前。いまほど応為研究は進んでいない1983年の小説です。

北斎が苦手としていた美人画や春画を描き、ときに父の代筆もして、闇と光を上手に操った応為。実在していた記録は残っているものの、どのように暮らし、どんな生涯を送ったのかは謎です。よって後発の作品と同じく、応為と北斎がどのように暮らし、作品に向き合っていたのか、想像ゆたかに描いています。

異なるのは、描写がじつに素朴なこと。後発の作品群は、北斎やほかの絵師との交流について史料を調べあげたり、江戸の風俗を細かに書き込んでリアリティをもたせ、重厚な作品にしあげています。それに対して『応為坦坦録』は、墨の濃淡、筆の強弱を表わすかのように、語るべきところと語らないところ、語り得ないところがはっきりしている。

いくら実在の人物を登場させても、物語はつまるところ虚構です。そこに現実味を持たせたくて、作家は描写に凝る。しかし、現実をありのままに描くのが自然主義なら、人間の内面も赤裸々に描けばいいと勘違いして若い女の残り香に夜具で悶える中年男はご遠慮申し上げたい。とくに芥川賞作品に多いのが、内面の湿っぽい感情を血や汗、熱といった生理的な暗喩で描こうとするのも閉口します。

現実味を持たせるための描写は結局、分析でしかありません。登場人物でさえ気に留めない情景描写や、これでもか、これでもかという大盛り特盛りの心情描写は、かえって白々しく感じてしまう。そこを、この『応為坦坦録』や『家守綺譚』は、軽やかに乗り越え、、潔く選び、そして適確に描きます。そのほうが、語り得ないものを感じたり、読みとりたくなるのです。日本人の美意識といわれる余白の美、の美は、文学でも表わせるものか。そんなことを考える端緒にもなるのが『家守綺譚』や『応為坦坦録』です。

『家守綺譚』を教えてくださり、ほんとうに嬉しい。ありがとうございます。

実は小川洋子『最果てアーケード』も取り寄せましたが未読です。屋根をたたく雨音はまだまだ強いのですが、今宵の枕元の友にするつもりです。

敬具

既視の海

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