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【8通目】あなたと一緒にフラヌールしたい——高原英里『詩歌探偵フラヌール』【書評】

拝啓

突然ですが、あなたは朝一番で耳にした言葉や、偶然に聴いてしまった曲の一部が終日、頭のなかで回りまわって、繰り返し口ずさんでしまうということはありませんか。

フラヌール。

起床してすぐに見た新刊メールで、私はフラヌールという言葉に一日中支配されました。しかもメロディ付きで。年末の忙しいときに、仕事をしていてもフラヌール。大掃除をしていてもフラヌール。

しかも、あのピチカート・ファイブの曲『モナムール東京』のメロディに合わせて、♬フーラヌール フーラヌーゥル〜♪と頭のなかで鳴り響くのです。いまも油断すると、脳内メロディに合わせて口ずさんでしまいます。まるで洗脳されたかのように、さっそく読んでみました。

高原英里『詩歌探偵フラヌール』は、主人公の一人、メリが「フラヌールしよう」と、もう一人のジュンを誘うところから始まります。フラヌールはフランス語のflaneurで、日本語では「散歩者」「遊歩者」と訳します。哲学者ヴァルター・ベンヤミンが著書『パサージュ論』で、19世紀のパリを目的もなく歩き回る遊歩者フラヌールを論じたそうです。よって「私の愛」と訳せるモナムール(mon amour)とは一切関係ありません。カタカナ語としての韻はふんでいます。

ベンヤミンのフラヌールは都市の観察者であり、視覚に負いながら都市の真実を見いだしていきます。他方、本書は『詩歌探偵』とあるように、メリとジュンが、視覚ではなく、詩の言葉をたよりに、東京をモデルにしていると思われる都市をゆるゆると歩いていきます。

二人が目指すのは、象徴派の大手拓次の詩にある「林檎料理」だったり、アルチュール・ランボーの詩『地獄の季節』にある「永遠」だったり。詩歌ですから、和歌も登場します。詩の言葉で世界を埋め尽くす「プラットル・プロジェクト」のために、二人が選者となって詩を探し求めていく後半は、まさに遊歩者フラヌールとして、廃虚と化している地下商店街に迷い込んだり、飛行船に乗って上空から街をながめたりしながら、詩と出会っていく楽しさと胸の高鳴りを二人と一緒に味わえます。

メリとジュンは、明記されてはいませんが、10代後半から20代前半の、いわゆる若者言葉、はやり言葉を使って軽妙な会話をします。その言葉遣いは、ピチカート・ファイブを口ずさむことができる世代からすると、ちょっと眉をひそめてしまいます。しかし、かえって本書で紹介される小林秀雄譯ランボオの言葉や、エミリー・ディキンスンの詩の訳し分け、最果タヒの現代詩などにおいても、言葉や響きの美しさ、味わい、余韻などが引き立つのです。そうやって知ったモダニズム詩人の『左川ちか全集』を、すぐに手に入れてしまいました。

本書には登場しませんが、批評家で詩人でもある若松英輔さんは、詩は「普遍」を求めて書く営みであり、普遍のはたらきがあるから、未知の人が語る悲しみや苦しみにも深く共振できるのだと言っています。メリとジュンがフラヌールするのも、私が最近、詩に強く惹かれるのも、そんな詩の言葉によって人とまじわり、ふれ合いたいからなのでしょう。

本書を読んだ後に、もともと大好きな詩人である茨木のり子の詩集『歳月』を手に取りました。この『歳月』は、先立たれた夫への愛を綴った詩集です。凜とした言葉が魅力であるほかの詩集とはちょっと違って、生々しい言葉、血がたぎっているような言葉が、かえって胸を強く衝きます。何度も読んでいるのに、あらたな胸の痛みがあるのです。

「フラヌールする」とは、詩と、詩の言葉と、詩人と出会うための歩みなのでしょう。

ずっとフランスの小説が続き、ようやく離れたはずが、ベンヤミンやランボオのことなど、やはりフランスものが気になるものだと、あらためて実感しました。頭の中ではいまなおフラヌールかモナムールかの区別がつかないほど鳴り響いています。年の瀬ですから、108回鳴るのを待つことにします。

あなたからの手紙も、待っています。

既視の海

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