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エステルハージ・ペーテル『女がいる』

女がいる。僕を愛している。かつてはそうつぶやいたが、いまでは分からない。彼女は僕に、消えるときはそう話してねという。はじめて寝た日からちょうど2年間、僕と音信不通になったからだ。僕が再び彼女の前に姿を現したとき、彼女は再び煙草を吸っていた。かつては食事をよく作ってくれたが、いまは一切作ってくれない。そして2日間、2週間、2か月間、彼女と音信不通になる。ほかの男ができたときはそう話してくれという。彼女は独り身だからだ。彼女が再び僕の前に姿を現したとき、僕は再び写真を撮ろうかと思った。かつては写真をよく撮っていたが、いまは一切撮っていない。僕の共犯にならないか。そう口説いてから10年。彼女は自分で写真を撮るようになる。僕が使っていたのと同じ二眼レフ。おじぎをするように真上からファインダーを覗き込む。僕と真正面から対峙せずにすむ。磨りガラスに映る僕は左右逆像になる。僕という真実に対峙せずにすむ。彼女は不意にシャッターを切る。僕を切る。記憶したから、もういらないと言わんばかりに。


これは既視の海によるパロディ。

エステルハージ・ペーテル『女がいる』を読む。

「女がいる」ではじまる97の断章。「男がいる」「『女は僕を愛している』がいる」といった多少の変奏はあるが、大半は「僕を愛している」「僕を憎んでいる」と続き、<僕>が<女>を語る。

<僕>は必ずしも自分であるとは限らない。父親のこともあるし、女のこともある。<女>も特定の恋人であるとは限らず、かつての恋人だったり、母親だったり、街でたまたま顔を合わせただけの女のこともある。

断章形式なので、ほんの数行で終わることもあれば、4ページほどにまたがることもある。男の抱く性的な欲望が述べられている一方で、女が覚える性的な衝動も描かれている。断章ごとに話は完結しているが、必ずしも明確なストーリーが存在するわけではない。心の裡をたゆたうように綴っていく「意識の流れ」の手法で書かれているともいえる。抽象的に書かれていて、文章も短いものは、ああ、そうなんだ、と同意するほかはない。何だか突き放される感じもしなくはない。

筆者の母国であるハンガリーで時事的または歴史的に有名な人物を引き合いに出して語るエピソードもあり、知る人ならくすりと笑うのだろうが、極東の島国にいる私たちには分からない。でも、訳者あとがきによれば筆者はもともと、パロディと引用が多い文章スタイルだという。筆者いわく、引用とは本と本が必要に駆られて話をしている状態であり、引用されたものが、別の肉体に移植され、緊張が生まれるのだと考えているという。なるほどと感心した。

何かを学んだ、カタルシスを得た、共感して心に染みた、なんて読後感はない。手元に残ったのは、ああ、これは自分でも書いてみたい、という想いだ。実際に起こったこと、勝手に想像したこと、自分の経験、他人の経験、自分の名の下に語れば恥ずかしくなってしまうような欲望も、このような断章形式で端的に、そして具体性を含めず、心に思い浮かぶままに書き綴っていけばよい。文体模写というほどでもない。書いてみたのは、それこそパロディだ。もし好評だったら、既視の海版「女がいる」を書いてみよう。

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