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嗚呼、中年クライシス〜うねるリズムのその先へ〜

その日の朝は、家族がいない静かな朝でした。

「早く歯磨きしなさいよ」と小学生の娘に言う妻の大きな声も、つけっぱなしの子供番組から聞こえてくる騒々しい笑い声も聞こえません。

そこにあったのは、もう10年以上使っている冷蔵庫のモーター音と、上の階の住人がまわす洗濯機の音くらい。

私は久しぶりに静かな朝だと思いながらも、さて世の中はどんな感じかなと、なんとはなしに朝の情報番組をつけてみました。

しかし特に気になるニュースもなく、星座占いのコーナーもまだ始まらなそうだったので、チャンネルをひと回ししてからすぐに消しました。

いつも娘がテレビを独占していることに腹を立てていたというのに、いざ自分が見られる状態になってみると、実はそんなに見たいわけじゃなかったんだと気がつくのです。


次に、私は朝ごはんでも食べようかと思い冷蔵庫へ向かいました。

すると、ふと、その冷蔵庫の上に置いてあるステレオ装置が目に入りました。

長方形をした薄型のCDプレイヤー。
「小さいわりに音が良いのよ」と、義父母の家から譲り受け、我が家に引っ越してきたCDプレイヤー。

「そういえば、久しくCDというものを聞いてないな」

そう思った私は、寝室の棚から懐かしのCDを一枚取り出してきて、さっそくそのプレイヤーにセットしました。

そしてリモコンを手に取り、再生ボタンを右手の人差し指でそっと押しました。

すると本体の小さいディスプレイに「CD」という文字が流れ、シュルシュルとディスクが回り始めます。

そして回転速度が最高潮を迎えると、やや沈黙があった後、プレイヤーの両サイドに設けられたスピーカーが空気を震わせて、一曲目のイントロを流しはじめたのです。


それはとても心地の良い音でした。

アコースティックギターが奏でる綺麗なアルペジオ。空間系のエフェクトをかけたエレキギターのサスティーン。シンプルなビート。
その上で響く、野太くも優しい歌声と、あの独特なヴィブラート。


私はキッチンに立ったまま目を閉じて、その流れてくる音の数々に神経を集中させていました。

すると、瞼の裏側に広がる私だけの無限空間では、オタマジャクシの形をした音符達がとても楽しそうに宙を舞い、クルクルと回り、フワフワと揺れ、伸びたり縮んだりしながらリズムに合わせて踊っていたのです。

今日はなんだか良いことがありそうだ。

そう思いながら私は朝食を済ませると、そのままリズムに乗るように身支度を整えて、いつもよりもちょっとだけ軽い足取りで仕事場へと向かったのでした。


その日の帰り道。時刻は深夜0時を回っていました。
祭日だったこともあり、終電近いというのに電車は満員です。

揺れるたびに隣の人の体重がのしかかり、私もまた同じように反対側の人に体をもたせ掛けなければなりませんでした。

そんな身動きの取れないなか、車内には安い酒の匂いと、甲高い笑い声が充満し、さらには誰かのヘッドフォンから漏れて聞こえる「ブンブンシャカ、ブンブンシャカ」というビートの聴いた電子音が、私の気を滅入らせました。

私はすがる思いでじっと目を閉じて、今朝キッチンで感じたあの心地よい音楽を思い出そうと、鼻の付け根と眉間の真ん中あたりに意識を集中させました。

しかし、それは叶わね願い。

どんなに外部の音をシャットダウンしてみても、どんなに強く目を閉じてみても、瞼の裏側に映るのは、干上がったバケツの中でウネウネと水を求めてうごめくオタマジャクシの姿でした。

「嗚呼、中年クライシス。社会で生きるとはこういことか」

私は今一度、右手で吊り革をしっかりと握りしめ、前に背負ったリュックサックを左手でギュッと抱きかかえました。

「この手を離してはいけない。この手を離してはいけない」

私は自分にそう言い聞かせながら足の裏に力を入れて、右へ左へと揺さぶられる体を支えながら、なんとか我が家のある駅へと辿り着いたのでした。



次の日の朝、私は物は試しだと思い、娘が子供番組を見ている後ろでCDをかけてみました。

するとその刹那、娘がキッと後ろを振り向いて言いました。

「パパ、うるさい。今すぐ消して」

私は「やっぱりね、でもうるさいのはどっちだい」と思いながら、リモコンの停止ボタンに指を乗せました。

すると不思議なことに、娘にあっけなく一蹴されてしまったというのに、なんとなく心の奥でホッとしている自分がいる事に気がついたのです。

いつもと変わらない朝、いつもと変わらない役割、何気ないやりとり、なんにもならない今日。

「ひょっとしたら幸せってこんなもんなのかな」

冷蔵庫の前でふとそんなことを考えていたら、再び娘が言いました。

「だからうるさいって言ってんじゃん。早く消してよ」

私は「はいはい、消せばいいんでしょ」と言って、停止ボタンの上に乗っている親指に、そっと力を入れました。

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