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襤褸襤褸(ぼろぼろ)になっても称賛されたものたち

終戦を知らずにグアムに28年間も潜伏をされていた元陸軍軍曹の横井庄一氏を御存じであろうか。

同氏が自然のものを利用して作られた衣服は非常に高く評価をされていた。それは繊維段階から作られたものであった。

ある日、博物館特設の日本のデザイン展に出掛けてみた。展示室にてはプロの写真家如きのおじ様が、私よりも沢山写真を撮っていた。「日本では最近、このようなものを身に纏っているのですか?」、などと訊ねられたら如何様に返答すべきかと危惧したが、さいわいそのような質問は回避できた。

以前、ドイツでギャラリーを運営している日本人の知人にこちらのモダンアート展の案内を送ったことがある。その案内書にて紹介されていた数々の展示作品の中で彼女が一番興味を示されたのは雑巾であった。

雑巾がアートと見なされる時代が訪れるとは凡人の私には予測は出来なかった。アートという名称にて洗礼を受ければあらゆるものがアートになり得るのであろう。

あせはいじき、暑い季節に着る衣服、ちなみにサムネイルの写真はふんどしと襦袢、1900年初頭 青森県


中古の服等を再利用した服 SDGの理念に準ずる


説明は見つからなかったが炬燵カバーを髣髴させられた


東洋博物館 襤褸展 展示室


日本同様、スウェーデンにおいても、昔、衣服は貴重なものであった。そのため壊れても捨てられずに補綻しながら大切に使われていた


足袋と作業用手袋 1870年-1920年 青森県


もみやまたかお氏デザイン この辺ならそれほどハードルは高くないかもしれない


刺し子 1900年初頭 青森県


マンチェスターとコーデュロイパンツは日本においては1900年初頭から製造され始めた。青森県


明治時代の帝国主義(1868-1912) から影響を受けたスタイルの麻製の学ラン


丹前-1892年に東北地方に鉄道が開通してからは北国の人も綿を入手出来るようになったが、それでも綿は貴重品であった。温暖さを保持するために人々は麻布を詰めていた。1870-1920年、青森県


例に依って緩慢に博物館の展示物を眺めて廻っていたら日が暮れていた。家路を急いでいなければ正面左手の王宮の夜景を愉しんでいたところであるが


クリスマス直後のこの時期は厳寒であった。二十年前に日本から持って来たホカロンをダメもとで持って来ていたがやはりダメであった。雪の上を40分間サイクリングをして帰るのは非常に難儀である、出来れば博物館から丹前を貸して頂きたかった


自家足袋の展示物から連想をした音楽と言えば、何故かこちら。


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