見出し画像

1感に絞ることで見えてきた世界

人が情報受け取るために使うのは、主に視覚と聴覚の2感だろう。

そして、私たちがよくやるやり方としては、視覚と聴覚をミックスする方法だ。映像で瞬時に全体概要を把握し、音声で足りない情報を補完するというやり方だ。

ミックスする方法がよく活用される場面としては、テレビを見たり、youtubeなどの動画配信サイトを見る時である。

しかし、最近ではそれに飽き足らず、3D映像を楽しんだり、その映像に連動させて触覚や嗅覚を刺激するなど、5感をフルに使って情報を受け取る4Dシアターを経験した人も少なくないはずだ。

というわけで、私たちは、"リアルな情報を限りなく100%に近い形で届ける" という熾烈な競争下の中で開発された最新テクノロジーをあれこれ試している状況と言える。

では、それを究極まで追求した先に私たちが得られるものは何だろう?

まず、普段体験しないようなことをリアルに近い形で体験できることから、『好奇心を満たす』ことができるだろう。そして、それが危険な体験なら『スリルを味わう』こともできるだろう。

つまり、究極の満足感である。


2感をフルに刺激した結果

ちょうど10年前、「観るのではない、そこにいるのだ」というキャッチフレーズのもと劇場公開された映画があった。

それは、"アバター" である。

"アバター" は、ジェームズ・キャメロン監督指揮により制作された映画で、全編デジタル3Dの当時としては初めての試みだった。

私もデジタル3D映像の魅力をふんだんに一言に凝縮した「観るのではない、そこにいるのだ」というキャッチフレーズに煽られて、公開と共に映画館に足を運んだのを覚えている。

3Dグラスを入場時に受け取り、期待を胸に膨らませ、席に着いたのだが、映画自体はキャッチフレーズに嘘偽りなく、作り物とはわかっていながらも、一瞬自分がそこにいるような錯覚に捉われるような場面が何度かあった。

そして、映画が終わってからも、感動と興奮が入り混じったような余韻は暫く続き、次の日になっても興奮冷めやらぬまま、知人にその感動を伝えていた。

まあ、それぐらいリアルだったということに尽きる。

しかし、3日目以降はどうだろう?

普通の生活を過ごす中で、その感動や興奮は次第に記憶の片隅に追いやられていき、1週間後には余り思い返すこともなくなっていた。

しかしなぜ、あんなに凄かったのに思い返すことをしなくなってしまうのだろうか?

それは、2感を通して一度に大量の情報が流れ込んできたことが原因かもしれない。

確かに、未知のリアルな体験をすることで感動と興奮を得ることができた。

だが、多くの情報で満足感を瞬間的に高めることができたものの、それに伴う落差と瞬間的で大量の情報を脳で処理するという潜在疲労で、燃え尽き症候群に似たような感じになってしまったのかもしれない。

まだ2感でこのような状況だから、5感をフルに活用して大量の情報を得るとなると、瞬間的な満足感は2感のフル活用とは比にならず、反動がより大きく返ってくると考えられる。そうなると、体験後にはすっかり生気を吸い取られた状態となり、干からびたジジイがそこに転がる光景が目に見えて止まない。

今回私は、過剰な情報に対して無意識の内に頭の隅に追いやるという行動に走ってしまったのだが、人によってはもう一つのパターンに走ってしまう恐れがあると考える。

そのもう1つのパターンとは、中毒症状である。

過剰な情報による刺激が快楽に変化し、すぐにでもまた快楽を得たいという人も多くいるはずだ。例えば、気に入ったアトラクションが終了した瞬間に、また列に並ぶ人なんかはそうかもしれない。

しかし、いずれのパターンも度が過ぎるとやっかいだ。

燃え尽き過ぎると疲れて暫く物事に興味が持てないし、ハマるとその行動ばかりを追い求めてしまって、他の行動に支障が出そうだからである。

そういう意味でも、情報を一気に浴びるという行為はリスクが高いのかもしれない。


1感でゆるりと過ごした結果

今から遠い昔、私が高校生だった頃の話だ。

私は、ラジオを傍らに置いてよく机に向かっていたのだが、ある時、作業の手を休めラジオに聴き入っていた。

時期はちょうど年末年始辺りだったと思うが、その時、NHKーFMで原作:白戸三平 の『カムイ外伝』がラジオドラマが流れていた。

カムイ外伝は、1960年代にすでに漫画化されており、昨年、松山ケンイチ主演で映画化もされていることからも、知っている人がいるかもしれない。

ざっくりストーリーは、抜忍で主人公のカムイが、追手に追われながらも色んな人と出会い、戦い、何とか生き抜いていくストーリーだ。本当ざっくりですまない・・・。

当時私は、ラジオドラマというものを本格的に聴いたことがなく、セリフと効果音だけで構成される2時間ドラマに、その時ばかりはすっかり魅入ってしまった。

ラジオゆえにもちろん映像もなく、ただただ耳から入ってくるセリフやナレーション、効果音のみでイメージを膨らませる。

『主人公のカムイの容姿はこうで、髪型は長髪、服装は半袖の汚れた着物で、履物は草履・・・』って感じで、足りない情報を勝手に補完し、展開と共に画を脳内で動かしていった。

そして、その無意識の作業が続くこと2時間、楽しくもあっという間の2時間が過ぎていった。そして、今でも年末になると、ただただラジオを聴いて楽しく過ごしたという1コマが思い返されるのである。


感覚を絞るとなぜ満足度が高まるのか?

しかし、進化に逆行している情報獲得手段にも関わらず、非常に満足感が高かったのはなぜだろう?

そして、私は考えた。

考えた結果、"自分に考える余地が残されていたから" ではないかと結論付けた。

なんせ、自分が想像するものは自分にとって一番理想なものを想像するはずで、情報を絞れば絞る程、自分が考える領域が増えて満足感が増すはずだから。

そして、もう一つ思ったことがある。

それは、情報供給スピードもまた満足度を高めるポイントなのかもしれないということだ。

ラジオドラマは、聴視者が何か作業をやりながらでも理解できる前提でわかりやすく作られており、ストーリーについていけないということはほぼない。つまり、大抵の人にとっては、情報処理能力以下のスピードで情報供給されているということになる。

以上のことをまとめると、相手に考える余地を残した情報を相手が処理できるスピードで提供してやるということが、一生モノの満足感を私たちに与えてくれる一要因と成り得るのではないかということだ。


感覚が自ずと絞られる最高のツール

正直、相手に考える余地を残した情報を相手が処理できるスピードで提供するという行為のさじ加減は非常に難しいのだが、実は容易にできるツールがすでに存在している。

それは、"文章" だ。

文章は、相手に考える余地を残すことは書き手のさじ加減でいくらでも調整できるし、何より、読み取りスピードは読み手に委ねられるからである。

そういう意味では、最高のツールだと言える。

人は約4000年前からパピルスに文字を記していた。そして、動画による情報伝達方法が始まってからもうすぐ200年になろうとしているが、未だ文章という情報伝達手段に置き換わることはなく、共存という形を取っている。

なぜ置き換わることはないかというと、先程から書いている通り、動画が瞬間的に満足感を与えるのに対して、文章という手段が読み手にジワリと満足感を与える手段だからではないだろうか?

ということで、文章という手段はこれからも末永く私たちと共存していくことだろうと思う。

この記事が参加している募集

熟成下書き

みんなのスキとサポートがいつも励みになってます! いただいたサポートで、お米を買います!