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青春

青春について、真正面から書く。文献を探ろうとしたけど止めた。私の全経験をぶちこんで書く。

青春とは、自分を諦めないこと

1977年生まれの私が、2022年の今、なぜ青春について語るのか。こんな静かな夜更けに、未だ諦めていない自分を面白く見つめているからだ。

青春はいつ終わるのか。
14歳?大学生まで?20代?

青春は、いつでも、自分を諦めた瞬間に終わる。

大切な人を亡くした。離婚をした。
ちょこちょこ人に裏切られた。
好きな仕事を続けられなくなった。
病院のベッドから窓を見つめるしかなかった。

それでも、何故だか、凝りていない。
今も、人を諦められない。自分を諦めていない。
今度はもっと大切にできる。
自分はもっと良くなれる。
そう思う自分がいる。

そんな自分を馬鹿みたいと思うことがある。
思わず、「馬鹿みたい」と検索する。

馬鹿みたい 子どもなのね
夢を追って傷ついて
嘘が下手なくせに 笑えない笑顔見せた
I LOVE YOUもろくに言わない
口下手でほんまに不器用
なのにどうしてサヨナラは言えたの
だめだね だめよ だめなのよ
あんたが好きで好きすぎて 
どれだけ強いお酒でも
歪まない思い出が 馬鹿みたい

ゲーム『龍が如く』シリーズに登場する楽曲である。
これじゃない。
こんなことを検索している自分は本当に馬鹿かもしれない。

同時に思う。

馬鹿みたいだけど、まだ、自分を諦めていないんだな、と。

青春と永遠

中学校一年生のとき、視座が切り替わった瞬間を覚えている。
にぎやかな教室。ふざけあう同級生。机で頬杖をつく私。
上から眺めて、100年後には、皆しゃれこうべなんだなと思った。

よい学校、よい会社に入るための勉強。
生き続けるための努力。
「輝かしい未来」の果てにある死。
14歳の私が強烈に空しくなったのは、裏返せば、強く永遠を希求していたからだ。

青春時代、人はたくさんの永遠を約束する。

「ずっと友達でいようね」
「おばあちゃんおじいちゃんになるまで一緒にいよう」

大切な人と離別したことのない時代。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」と言い捨てながら、まだ現実には知らず、夢のなかにいたのだろう。

青春は、真実を求める

やがて、卒業した友人からの便りはなくなり、恋人とは大抵別れることになる。

永遠を願う気持ちは、真実を探し始める。

あれは、「本当」じゃなかったんだ。
どこかにきっと、本物があるに違いない。

だから、私は偽物がいやだった。
世間話が苦手だった。
愛想笑いがひきつった。
普通を馬鹿にした。
当たり前を嫌った。
大人を信用しなかった。

耳障りのいいことを聞いても、「そんなの偽熱だよ」と信じなかった。

ところが、偽物はわかっても、本物がわからないのだ。
本物を探すのは、丸太から木彫りで熊を彫り出す過程と同じだった。

やってみる。違うとわかる。
こっちはどうだ。違うとわかる。

本当にここを彫っていいのか。
ちゃんと熊に近づいているのか。

こんなんじゃ、だめだ、だめだと感じてくる。

もしかしたら自分も偽物じゃないのか。

青春の苦しみ

私の場合、青春は、8対2で苦しみが勝っていた。
苦しいのは、大抵、過剰な自意識が原因だ。

人と話したあと、後悔する。
「もっとこんな風に話すべきだったよな」
「なんであんなこと言ったんだろう。呆れられたかな」

反省しているようで、ずいぶん、傲慢じゃないかと思う。

きっと私は、自分がもっと優秀で理解が深く特別な存在だと思っているんだ。

たぶん、話し相手は、いつもの私だと思っているはずだ。

こんなもんだと分かった上で、好ましく思ってくれているのだ。

それなのに、私ときたら…。

うわっ恥ずかしい!

青春と執着

どこまでも青春であろうとすることは、執着ではないのか。

生きていれば、必ず老いる。
どんなに鍛えても、肉体的に精神的に衰えていく。

いつまでも席を譲らず、自分が主役であり続けようとする人を若者は嫌う。

それもそうで、青春を求めることと、青春にしがみつくことは違う。

青春にしがみつく人は、「自分が若いころは」と過去に浸る。
青春を求める人は、学ぼうとする。

たくさん経験をすると、物事を一面から見なくなる。

悪人を見ても、本当か? と思う。
善人を見ても、同様だ。

青春を求め続けても、答えは出ない。
むしろ、何も言えなくなってしまう。
若いころより、無口になった。

諦観の先の青春


先月、私は45歳になった。
若い頃、この年になれば、もう少し悟っていると思っていたけれど期待外れだった。

でも、長年、自意識過剰による青春病に苦しめられた私に、一筋の光が差している。

明るい曇り空みたいな諦観である。

私は、特別な人間ではなかった。
(今更?と思われるかもしれない。でも、自分がとるに足らない砂漠の砂の一粒だと、最初から思う人がいるだろうか)

ああ、悔しいな。残念だ。がっかりだ。
その言葉に、安堵の響きがあった。

若いころに戻りたいとは露ほども思わない。
やりたいことをやった。
避けられない道も通ってきた。
なるべく最善、無理ならベター、最悪ワーストを回避する。
過去に戻ってもう一度やり直しても同じ選択をするだろう。

ベストの先の先が今なら、何を恥ずかしく思うことがあるだろう。
自分をよく見せようとする必要はない。
諦観は、自分はこの程度だと諦めることとは違う。
今のままで充分と受け入れることだと知った。

その上で、やりたいことがたくさんある。
知りたいこともある。
しゃれこうべなんて言ってる場合じゃない。

ここにきて何故だか清々しく青春なのである。

青春とは、自分を諦めないことである。

「自分を諦める」とは、自分を見くびることだ。
自分を見くびる気持ちは、他人との比較で生じる。
他人の目で自分を見ないこと。

赤ん坊のとき、俯瞰で世界を見ている人はいない。
自分から見た世界が「自分」になる。
世界はどこまでも広がっている。
自分に限界はない。






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