戦略的モラトリアム㉕

二〇〇〇年  一〇月上旬  天気 晴れ   場所 都内の専門学校
    精神状態 妙な高揚感

いつものようにせわしない毎日を送っている。大検取得から一年というのに、僕はあのときのとめどなく溢れる恐怖をまだ覚えている。
流れるいわし雲。まだ少し暑い日があるというのに、空はすっかりと秋の装い。僕はそれがとてつもなく怖かったんだ。
行雲流水とはいうけれど、僕は澱の中に生きる人間。静止しているわけではないが、ユラユラ猶予って生きていたい人間なんだ。だから、大海原に出ることなく、ゆっくりと腐敗して、やがて死んでいく。それを誰に咎められることなく……。そんな生活を望んでいた。それゆえ大きな目標を決めることもなく、いかにモラトリアムでいられるかを主眼において今まで行動していたのさ。
でも、山に降る雨はそのほとんどが海に出て、やがては雲になり、そして大地に舞う。それば曲げようのない自然の摂理。それならば思いっきり遠回りして、海に出る心構えができるまで自分は猶予ってやるんだ。今までそうやって自分を慰めてきたから、これからもそうするだろうよ。
そう言った意味で大学ってところは猶予うにこの上ない場所。僕が行くべき場所なんだ。だから、ここに行くことこそが僕の進むべき道。

嗚呼、末期的非社会的シンドローム

東京はその邪を隠してくれる隠れ蓑。僕を社会的な攻撃から傷つけないように守ってくれる。僕の存在を満員電車で隠してくれる。ビルの谷間に隠してくれる。雑踏の中に隠してくれるんだ。
東京の傘の下僕は大学生になって、ユラユラ猶予ってやるのさ。

そんなある日のことだった。専門学校の昼休み。僕は駅前の予備校に向かった。隣接している書店で大学願書を販売しているらしい。まだ、買わないにしろ、見るだけならタダだろ。そんな安易な気持ちからの行動だった。
 書店に入ると角型二号の封筒が片隅に並べられていた。ふと、「締め切り間近!」と赤で書かれた願書を発見。

「自己推薦入試……?」

 どうやら論文と面接で合否判定するらしい。そんなこといったって、じゃあ今までの勉強は何だったんだってことになるじゃん。それだけのことで決められたってねえ……。こっちが納得しないさ。ちょっと脳内議論を繰り返した後、募集している学部を見る。
「……。ふ~ん。」
 教養学部の系統である。しかもここからさほど遠くない大学。都内ではないが、充分に東京にアクセスできる距離。当然一人暮らしになる。
 一瞬、財布の紐が緩んだ。

その夜、モラトリアムホットラインを使った。僕には判断できないし、自分の気持ちがどう向いているか確認したかったから。
「受験料はあるの?」
「うん。それぐらいはある。」
「じゃあ、やれよ。迷うことなんてないじゃん。」
「だって、じゃあ今まで勉強してきたのは何だったのってことにならない?」
 「無駄だって思うの?」
 「いや、そうは思わないけどさ。単にそれだけのことで入れられてもねえ……。どうだろ。」
 「お前は大学行きたいんだろ?そうだったよな。」
 「確かにそうだけど。」
 「じゃあ、やれ。」
 「……。」

 楽になった。不思議と怖くなくなった僕は
 「分かった。サンキュ!」
 と、電話を切ると、来るべくして来た、何度目かの分岐点に仁王立ちしていた。
 その時、大学がどういうところか、僕には十分理解できていたつもり。ただ、こんなにあっけなく大学入試が終わるのが、若干抵抗のあるものとして、少し抵抗のあるものとなっていただけの話だろう。ここで方法論を論じていくつもりもないし、今となっちゃ、なりふりかまっていられないことも痛いぐらい分かっていた。ただ、つまらない僕の一欠けらのプライドと、苦い過去の記憶に対しての畏怖の念が、ほんの少しだけ躊躇させていた。あの高校を辞めた日……。大学受験に失敗した日……。幾重にも刷り込まれた分岐点に対する恐怖。僕にしてみれば、どれも思い出したくない過去だ。でも、その分岐点に差し掛かった僕の背中を押してくれたのがモラトリアムホットラインの彼ってわけだ。

 状況はまったく違っていた、あの時とは……。確実に時は動いていた。


福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》