大学は教育機関か研究機関かを明確化すべき

さて、前々回の母のことを皮切りに、前回は大学進学を選んだ自分の選択への反省から短絡的に大学進学を選ぶことの問題点を書かせていただきました。親の教育が原因であれ卒業後の肩書目当てであれ、手にする学問に対する意欲と責任が無い人間は大学に入れてはいけない、これは何度でも言っていきたいと思います。

自分の持論として「よく『学問は世を渡る武器』と受験等で言われるが、使い方を間違えれば凶器と化すという意味でも『武器』であることは間違いない」と思っています。

これは自動車に例えるとわかりやすいでしょう。自動車は高速で移動したり、大量の荷物を運んだりと利便性が高いものです。ですが一たび衝突すれば物損はおろか人命すら奪いかねない危険性も持つ代物のため、運転にあたっては免許取得が義務付けられています。自動車学校に通った方は適性検査を皆さん受けたと思いますが、利便性が大きいものほど人格面まで含めてチェックされないといけないのだということは本来そこで理解しているはずなのです。

学問とて例外ではありません。というよりも、例えで出した自動車ですら学問に学問を重ねた果てに誕生したものです。他にも工場であれば様々なものを大量生産できますが、ひとたび事故を起こせば周辺住民に害を撒き散らしかねない存在でもあります。或いは銃は犯罪者や侵略者に向けて撃つことで無辜の人々を守る抑止力ともなりますが、ターゲットを外したり最初から無辜の人々に銃口を向ける人間もいるわけです。これらもまた、学問に学問を重ねた末に誕生したものです。

学問を持つ者の責任は重い。それは車を運転するよりも銃を構えて引き金を引くよりも格段に重いです。大学を進学を選ぼうとする受験生や、既に卒業された方は過去のご自身に問うてみていただきたいです。時に銃を握るよりも重い責任を、自ら負う覚悟があるかと。

親の教育で言われるがままに勉強してきた人たちや、大卒の肩書でふんぞり返っていたい人たちで、ここで「はい」と答えられる人はほぼいないと思います。

自分が蛇蝎の如くそれ以上に嫌う「いい大学からいい就職先で将来安泰」論は、大学を「教育機関」として見做す考え方が世の中に広く浸透しているから起こることです。

ですが、大学が教育機関だなどとは自分には到底思えません。前回書いた過去の自分たちのように「出席も誤魔化しレポートは仲間内で回ってきたものも丸写し、試験も何とか問題が手に入らないかを願い、極めつけに単位を落としたら教授のせい」という有様の学生たちの前に教育機関であれば指導に駆けつけない方があり得ません

教授たちも流石に多かれ少なかれ学生たちの様子は知っています。意地悪い出席チェック等をする教授も実際にいました。ですが黙って単位を落とすだけで、不正を行わないように指導されることは一度もありませんでした。

何故なら教授たちは研究者だからです。勿論自分の研究室に来るような学生は面倒を見る意欲的な教授も中にはいました。それでも彼らの専門はあくまでも研究であり、学生の指導はあっても副次的なものに過ぎないのです。そして各教授に対してそのスタンスは間違っても責めてはいけないのです。何故なら研究者と教育者で求められる素養は根本から違うからです。

既にご理解の方も多いと思いますが、大学は研究機関としても見なされています。即ち大学は教育機関と研究機関という毛色の違う筈の二面性を持っているのです。上記のように教育機関としては失格もいいところのザマを晒していても、研究機関と主張すれば正当化されてしまっているのです。

日本の大学の研究レベルは低いと言われています。研究機関であることを主眼に置いて考えた場合、中途半端に教育機関としての動きも入れているから当然の帰結と言えるでしょう。日本の大学は教育機関としても研究機関としてもレベルが低くなるのは避けられない現状なのです。

そして意欲を喪い錯乱状態の過去の自分でも、大学は定員割れギリギリのため金さえあればどこかしらには入れる状況となっております。所謂「Fラン」と呼ばれるような大学の学生はレベルが低く、中には小学生の分数を教えるような有様のところもあると言います。また東大のような受験競争が熾烈な場所でも、例えば何処かの大企業創業者一族を世襲する立場である愚劣を輩出してしまっています。東大出身というだけあって地頭はいいのかもしれませんが、子会社の金を何百億円も海外でのギャンブルに使い込んだ世襲の愚劣の話は、どこの企業かまでは言いませんが「あそこか」と理解してくれる方も多いでしょう。学問だけは人を唸らせるレベルがあるのは事実でしょうけど、時に凶器と化するそれを扱えるだけの人間性など欠片も持ち合わせていないのです。低レベル大学では小学生の勉強を教えないといけない、高レベルの大学でも人間性の保証が無い。こんな存在が「国の最高教育機関」であっていいはずなどありません

が、だからと言っていきなり「低レベル大学は全部潰せ」とも言えません。何故なら自分が入れた大学もそうですが、教授陣はそれ相応に経験のある人々が揃っているから(世界的には低水準と言っても)です。有り体に言ってしまえば低レベルの大学は優秀な教授が研究を続けられるようにするための受け入れ先となっているのです。それを潰すことは教授や研究結果を流失させていいと言うことに等しく、日本の研究界の裾野を破壊し更なるレベル低下を招くことになります。

ただ、研究者の受け入れを何故教育と地続きの場所で行う必要があるのかについては糾弾すべきだと思っています。或いは逆に研究が主である筈の場にどうして教育を要求するのかを糾弾すべきです。更に踏み込んで言えば、研究機関は研究所、就職を目指す教育機関は専門学校と目的を果たせる枠組みが存在するのに、何故どちらも負っているが故にどちらも中途半端になってしまっている大学をありがたがるのか意味が分かりません。

更に恐ろしいことに、このような中途半端な場所に「将来のために学びたい」と借金してまで入っていく若者が後を絶たないことです。教育機関と考えて大卒という肩書を得て就職に進んだ場合、たとえ普段は優遇されたとしても一たび事があれば重い責任を背負うことに繋がります。研究機関と考えた場合何故研究するはずの場所を将来の足掛かりとするのかの矛盾が発生してきます。どちらにも明確な答えを出せないままであれば、奨学金という借金をするなど軽率もいいところです。また「将来安泰」論を見直さず大学も教育機関と研究機関の中途半端な立場に胡坐をかいたままであることを許し続けていては、軽率に借金を背負い込む若者を延々と再生産し続ける仕組みは消滅しません。どこぞの政党が「奨学金徳政令」とマニュフェストで打ち出したことがありますが、今苦しむ若者を一時救済するのは間違いないでしょうけど、またすぐ再生産されて元の木阿弥になるという現状なのをどこまで理解しているのか甚だ疑問です。中には子供の奨学金を取り上げて自らの金にし、借金返済を子供に負わせて後は知ったことではないという毒親もいるという話です。この状況を分かっていれば受験を目指す若者たちへの教育もマニュフェストにしそうなものなのですがね。

ここまで大学「教育」についてはかなり厳しい言葉を並べさせていただきました。ただ、自分も曲がりなりにも大卒です。他の能力が全て同じで勉強ができるかできないかだけの人間同士の比較だった場合、勉強できる人間の方が絶対値が大きいのは理解しています。

いずれにしても大学制度改革は日本にとって急務であることは確実で、自分の頭にはその具体的な方針もあります。ただ、大学を教育機関とするか研究機関とするかで採用する改革内容が変わってくるので、その答えが出てからでなければ「こうしよう」と言うことはできません。教育機関とするか研究機関とするか、一番肝心な分岐点ではあるのですが、どちらも一長一短でここだけは自分が「こっちにすべき」と言うことができない部分でもあります。

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