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決めない勇気


2024年1月13日(土)朝の6:00になりました。

他人のせいで不幸になることはないと学んだのである。

どうも、高倉大希です。




原稿をただ読み上げるだけの発表が、この世にはごまんと溢れています。

これほどまでに、聞いていてつまならいものはありません。


なぜなら、目の前にオーディエンスがいる必要がないからです。

ひとりで話している状態と、なんら変わらないわけです。


いわゆる「ライブ感」が、まったくもってありません。

話し手の目的が、この発表を終わらせることになってしまっているのです。


読む本や観る映画が決まっており、コラージュを作ることまで指定されている。そこに子どもたちが独自の思考をはたらかせたりする不確定な状況がないのであれば、デューイはそれを探求ではないという。

藤原さと(2020)『「探求」する学びをつくる』平凡社


漫才は、練習しすぎるとつまらなくなる。

芸人さんが、このようなことをよく話しています。


これもきっと、おなじです。

練習しすぎると、練習どおりに進めることが目的になってしまうのです。


「練習どおりにできなかった」と、肩を落としている人をよく見かけます。

本当に「練習どおりにすること」が目的なのかは、よく考えなければなりません。


ぼく自身の仕事のうえでは、「自分はこういう方向で行くんだ」というように決めつけるとあぶない、という気がしています。

吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


目的と手段は、1対1ではありません。

ひとつの目的に対して、手段はいくらでもあります。


そんな手段を、はじめからひとつに決め込んではなりません。

「これで行くんだ」と決めてしまうと、それどおりに進めたくなってしまいます。


目の前にいるオーディエンスを、置き去りにします。

最後の文字に向かって、必死になって原稿を読み進めることになるのです。


デューイによれば、思考のプロセスは、探求のプロセスである。彼は、子どもの学びが子ども自身のものであり、子ども自身が考えるようにしなければならないと主張する。それは、子どもたちがみずから学び、考えるプロセスを尊重することであり、リフレクションの経験を大切にすることでもある。

上野正道(2022)「ジョン・デューイ 民主主義と教育の哲学」岩波書店


一から十まではじめから決めておけば、たしかに安心することができます。

最初から最後までを、想像することができるからです。


それをわたしたちは「がんばって準備をすること」だと思っています。

誰かのためかのように見せかけて、実際は自分が安心するためです。


手段なんて、その場でいくらでも変えられるはずなのです。

そのためには、決めない勇気が必要です。






サポートしたあなたには幸せが訪れます。