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旅する日本語

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story.01 炎節のサイクリング

story.01 炎節のサイクリング

「今日もめっちゃ溶けた。」

帰宅すると夫は、毎日そう言いながら嬉しそうに背中を見せてくる。
まるで土砂降りの雨の中、傘もささずに帰ってきたかのように背中一面濡れているTシャツ。

雨ではない、夫から溶け出した汗だ。

天気予報図は毎日真っ赤に染まり、岐阜では40度を越し、愛知ではエアコンのない学校で熱中症で小学生が亡くなるようなこの炎天下、夫は乗り換え駅まで、自転車で通勤している。

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story.02 差添いの祈り

story.02 差添いの祈り

「縁切り神社に行きたい」

その当時、妻は疲れ切っていた。

「グリーン車にタダで乗れるチケットあるけど今月末で切れちゃうから、新幹線でどっか行こうか?」

妻にそう聞くと「熱海に行きたい。来宮神社に行く」と言うので、急遽日帰りの旅が決定した。

朝一のグリーン車でゆったり熱海へ向かい、昼前に来宮駅に着く。長い狭いトンネルを通り抜けると来宮神社があった。

妻は自分の分だけでな

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story.03 寸景の神楽坂

story.03 寸景の神楽坂

「もんぺが欲しい」

少し前から「うなぎの寝床」のもんぺが欲しくて悶々としていた。

長野にある山の上のパン屋さんで有名な「パンと日用品の店 わざわざ」の影響だ。でもできれば試着して買いたい。神楽坂で買える店があるとわかり、夫と行ってみることにした。

「jokogumo」と書いて、よこぐもと読むそのお店には、いろいろな生活雑貨が丁寧に置かれていた。お目当てのもんぺを見つけ、リトグリにいそ

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story.04 昧爽の覚醒

story.04 昧爽の覚醒

正直、自分が一番驚いていた。

彼女と付き合いだして数ヶ月経った頃、初めて泊まりで旅行をすることになった。

それまで食事や買い物に行ったり、たまに僕の部屋に彼女が遊びに来たりはしていた。でも、完全に心を許してはいない自分がいた。

旅の途中、彼女は屈託もなく僕に荷物を預けてトイレに行く。出てきた彼女に荷物を返し、僕が行こうとすると彼女は「荷物持ってようか?」と聞いてくる。僕は「大丈夫」と

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story.05 幸先の悪い1111

story.05 幸先の悪い1111

その日は朝から冷えていた。

乗り換え駅の渋谷で彼と2人してトイレに駆け込むような事態に、早朝から不安しかなかった。

目立つことが苦手な2人が選んだのは写真だけのフォトウェディング。教会を貸し切り、入場から結婚の誓いまで一連の流れを2人で演じた。

指輪交換の場面、彼が突然跪き、指輪のケースを開けた。思わず涙がこみ上げる。次の瞬間、

「でも、切れてるの」

半泣きの彼、大爆

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story.06 涼飈の原宿

story.06 涼飈の原宿

原宿には異空間への入口がある。

騒がしい人混みから一歩入ると、そこにはまるで避暑地の高原にでも足を踏み入れたような涼と静寂があった。緑に囲まれた参道、頭上に突き抜ける青空、そして、少し張り詰めたような厳かな空気。

明治神宮。

誰もが知っているのに、あまりにも日本人がいない空間。境内を歩いているのは海外からきた観光客ばかり。まるで自分たちの方が、海外にきたのかと錯覚するくらいだ。

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story.07 礼遇の音色

story.07 礼遇の音色

もう一度訪れたい場所が、京都にある。

「妙徳山 華厳寺(みょうとくざん けごんじ)」ーー通称、鈴虫寺である。

2015年の夏、夫婦で京都への旅が決まった時、夫がここだけは行きたいと教えてくれた。

その魅力は、一年中、鈴虫の音色が聴ける環境にするためにクーラーを効かせている座敷の部屋で、お茶とお菓子をいただきながら、小一時間、住職の話を聞く「鈴虫説法」だという。そのために、全国各地

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story.08 標高634mの奇偉

story.08 標高634mの奇偉

標高634mーー東京スカイツリーと同じ高さに、その世界遺産はあった。

妻と二人の夏休み。JRで宇都宮駅へ、さらに日光線に乗り換える。偶然にも観光仕様の「いろは」号。小一時間電車にゆられ、趣ある駅舎の日光駅に到着した。

日本には2018年8月現在、世界遺産が17箇所ある。東照宮は「日光の社寺」として、二荒山神社、輪王寺と合わせて1999年に世界遺産に登録されている。

東照宮に向かう

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story.09 碧空のトライアル

story.09 碧空のトライアル

その瞬間、漕ぎ出しの軽さに驚いた。

炎節が影をひそめたお盆明けの日曜日、私たちは自転車で出かけていた。
夏もお盆で休んでいるのか涼しくて、風が心地いい。

体力も筋力も運動神経も致命的にない私は、自転車を思うように操れない。それゆえずっとママチャリ一筋できた私をなんとかロードバイクに誘導したい夫は、まずはバーハンドルに慣れようと提案し、近所の大きな公園に向かった。

公園に到着し、自転車を夫と交

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story.10 生ひ優る方向音痴

story.10 生ひ優る方向音痴

昔から方向音痴のエピソードには枚挙に暇がない。

大学受験の時、すべり止めの大学に下見に行った。

印刷した地図を頼りに進むが辿り着かない。諦めて駅に戻ると、道案内の看板は、進んだ道の反対側に出ていた。

5年以上前、新宿駅南口で友達と待ち合わせた。

西口から案内板を見ながら向かうが、辿り着けない。行っては戻りを繰り返し、小一時間徘徊、なんとか辿り着いた。

そして数年前、夜スーパー

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story.11 恋草のゲリラ豪雨

story.11 恋草のゲリラ豪雨

確か、真夏に「ゲリラ豪雨」という風物詩が始まった頃のことだ。

最寄り駅からの帰り道、雨が降ってきた。突然の雨で、僕たちはどちらも傘を持っていなかった。家に帰るだけだ、と傘を買わず急ぎ足で駅を出た。

早足で歩く二人。雨脚は強くなるばかり。大通りを抜け路地に入った頃には、バケツをひっくり返したような大雨。雨音に消されないようにお互い、叫ぶように声を張り上げる。

この非日常はもはや「旅」だ。

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