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「自分との孤独な戦い」みたいな無理やり自己肯定や納得させるためだけの

春の息吹を伝える自然の営みについて述べたい。ヘッダ画像をお借りしています。

自然界の小さな奇跡を奇跡と呼ぶことに、人は悦楽を感じるものです。そんなのは何千年と繰り返されてきたのに、人が勝手に奇跡とか呼ぶ。

全国の自然公園では、春が静かにその足音を響かせ始めている。日本の森や田んぼ、湿地帯では日本赤蛙が新たな命の誕生に向けて忙しく動いている。

彼女らは卵塊を水辺に産み落とし、春の訪れを告げる使者……とか呼ばれているらしいが別に彼女たちはただ必死にいきているだけである。

これらの卵塊は一つや二つではない。何十個という卵塊があり、そこから何千の命が野に解き放たれるわけです。まるで自然界の宝石のようだと人は言う。勝手に子供を宝石にされた気分はどうなるだろうか。

この産卵の行為は春まで続くらしい。しかしこの自然界の周期は、昨日ぼくが書いたように、急激に暖かくなった気候の変動によってのみ起こっているんじゃないですかね感が極まりない。

日が変わるごとに、世界は再び氷点下へと戻ることがある。このような不安定な気候の中で、気候に振り回される蛙たち、特に絶滅危惧種である日本赤蛙の姿は大きな力に命が振り回されるってどういうことなのかを如実に物語る。

日本赤蛙は、その小さな体で大きな自然の変化に立ち向かっているみたいな美談がこれからいろんなところで見られるんだろうなと思う。

彼女らはぼくらにとっては見過ごされがちな存在でしかなく、こんなことでもなければ話題になったりしないんじゃないでしょうか。あとは水抜きの低俗な番組に出てくるぐらいか。

彼らの生態系での役割はどんなものなんでしょう。絶滅危惧種というレッドリストに載っていて、それだけでも余計目を引くんじゃないだろか。それで勝手に春の訪れを告げる生き物とか言われるんだからたまったものではない。彼女たちを見てぼくらも力強く生きなければならないのか。

これらを自然界の小さな奇跡とか言っていいんでしょうか。そりゃ人間は水の中に出産しないから奇跡かもしれませんね。日本赤蛙は別に毎日挑戦とかしているわけじゃなくて、その日その日をやっている。その部分だけはぼくらと同じである。ぼくらはそんな頻繁に大多数の出産をしないけど。

人間の「孤独な戦い」とは出産の喜びに通じるのだろうか。ぼくには永遠にわからない。おとといは死について考え、昨日は亜寒帯を切り捨てて亜熱帯に生きる意味を見出し、今日は自然界の命について、出産の生態について考えた。このように思考する側の生き物の動機とはあまりに身勝手である。

彼女たちもぼくらも生存に執着しているわけではない。昨日と変わらない考えとして一生春か夏でよい。この寒さがこのようなことを考えさせるのだから。

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