10年越しの夢

キヨハラ先生は当時わたしの通っていた私立の中高一貫校の美術の先生だった。

小学生のころ、教室で本を読んでいると「ギマさん、休み時間なんだからお外で遊びましょうね」と担任の先生に言われ(休み時間なんだから好きに過ごさせろ)と内心腹を立てながら笑顔で「はい!」と答えた後、校庭で本を読むくらいには勉強以外何にも取り柄のなかったわたしは、1年生にして塾に行きたいと自分から親に頼み込み、小学生新聞を購読し始め、小3の頃には塾でいちばん厳しい先生に「志望校はどこでもいいですよ、今の偏差値ならどこでも受かる可能性が十分にあります」と言わしめたものの小4ではやくも挫折し、第一志望の国立に呆気なく落ちた。
だって塾の前まで親に送ってもらっておきながら、貯金箱からくすねたお金でとなりのミニストップでチリトマトヌードルを食べたり、塾の本棚にあったネイチャーやドストエフスキーを自習室で「むずくてウケる」と思いながら読んでは時間を潰していたのだ。『罪と罰』『ハリー・ポッター』『愛と幻想のファシズム下巻』が人生で三大読了前に挫折した小説である。菊地成孔も「11歳でドストエフスキー」と歌っていたし、あと2年くらいしてから読めば面白かったのかもしれない。

すべり止めだった私立は同じ学校を粘りに粘って3回も受験し、最終日になんとかその日の2位の成績で合格し特待生で入学したものの入学後すぐに担任よりADHDを指摘され、半年でうつ病を発症し、絶賛不登校になった。
翌年からはもちろん特待生ではなくなり、親に申し訳なくなるほどの多額の学費を払わせながら学校に行くふりをしては渋谷無限大ホールや神保町花月に通う毎日だった。
学校にとって期待の星だったはずのわたしは、瞬く間に問題児へと退化し、親には言わないで欲しいようなセンシティブなことを保健室からの電話で無断で報告され、校医さんにも叱られ、無事母親より「死に損ない」の称号を得た。
家にも学校にも居場所がなくて、お金もないから電車のなかでずっと寝ていたら、難しい名前の珍しい睡眠障害まで発症した。

音楽のテストで『Hey Jude』を歌えと言われたときは、歌詞なんて1ミリも知らないから閉口してしまった。(そのあと反省してイタリア語のサンタルチアは覚えた。)数学のテストは2点、皮肉にも学年で下から2番目だった。最下位の子はテスト当日に休んだ保健室登校の子だった。

Composition with large red plane, yellow, black, gray and blue, 1921 Oil on canvas 59.5 x 59.5 cm Gemeentemuseum Den Haag

美術の成績も提出物が出せないから10段階で3だった。模写の課題にピエト・モンドリアンのあの代表作を選ぶくらい(モンドリアンは最高なんだけれど、模写の授業の趣旨ってそういうことじゃないとは思う)絵はあまり得意じゃなかったし、手先も不器用だったので美術の授業自体は好きではなかったけど、キヨハラ先生のことは大好きだった。カッコよくて憧れだった。薄化粧にリトルブラックドレス、長い髪を無造作にまとめた年齢不詳の雰囲気。完全な想像だが、家に花を飾ってチーズをつまみながらワインを飲むようなひとだろう、と思っていた。だからといって近寄りがたいといったことはなく、わたしだけではなく、誰にでも笑顔で親身に接してくれていた記憶がある。みんなキヨハラ先生が大好きだった。
たまに学校に行くと放課後に課題の制作に付き合ってくれたり、悩み事を聞いてくれたりした。キヨハラ先生のおかげで、提出物も少しずつ出せるようになり、成績は7まで上がった。そしてあるとき、本業はリトグラフ作家であると教えてくれたのだった。
聖原司都子という名義で発表されている、先生の作品を初めて観たときは一目惚れだった。
その頃知って、好きになった中原淳一や内藤ルネ、草間彌生、Chim↑Pomやマウリツィオ・カテラン、トレヴァー・ブラウンやエドワード・ホッパーらとは全然違う作風だったし、絵の良し悪しをどう判断するのかはわたしには分からないから好きか、そうでもないか、の二択でしか判断できないのだけれど、これは大好きだ、と思った。先生のつよさとやさしさが滲み出ているような感じがした。

ずっと観ていたいと思った。観ているとすうっと心に入り込んで、何を言うでもなくとなりに座ってあったかい飲み物なんか差し出してくれて、こちらがぽつりぽつり話し出せばやさしく頷いてくれる友だちのような、そんな元気の出る絵だと思った。ご近所物語の歩も言ってたな「優しい絵がかけるのは心が優しい証拠なんだよ キャンバスは心を映す鏡だから」って。

当時から真っ当な勤め人にはなれなさそうだ、と感じていたわたしは「姓名判断では女社長になる名前と言われたんだ」という親の言葉を先生に笑いながら告げ「もしほんとうに社長になったら、必ず社長室に飾らせてください」と言った。そのとき先生が何と答えたのかは思い出せないが、14歳の足りない頭で「飾るためだけに、社長になろうかな」と思ったくらいは先生の作品が好きになってしまったのだった。

その後は追い出されるように付属の高校には行かず、なんとか縁あって共学の高校に入り、そこでもまた忘れられない恩師に恵まれ、どうにか大学までは入り込んだのだが、やっぱりわたしは全然だめだめのままで、真っ当な勤め人にも社長にもなれなさそうなことは自分でも痛いほどよくわかっていたけれど、休学してフィリピンに行ったり、講義をサボって喫茶店でイチゴジュースを飲んだり、インカレサークルでお笑いのまねごとをしてみたり、とぷらぷらしてるうちになんやかんやで大学を中退して家出をして札幌に移り住むことになるとはさすがに思わなかった。逆ビリギャルである。

人生ずうっとぷらぷらしている。16歳ごろ「地に足なんてつけてたまるか」というスローガンの入ったポスターを作ったことがあるが、今となってはかなり恥ずかしい。「お願いだから地に足つけさせてくれ」の気持ちである。帝釈天で産湯を使ったわけでもないのにフーテンである。
不思議な縁持ちまして、北海道は札幌にやってきたものの粉骨砕身、 励もうと思ってることもなく、西に行きましても東に行きましても、とかく土地のおアニィさんにごやっかいかけがちな小娘というには憚られる歳の女でございます。以後、見苦しき面体、お見知りおかれまして恐惶万端引き立てて、よろしく、おたのみ申します。ってな感じである。

はなしは逸れてしまったが、そんなフーテンのわたしとも先生はずっとSNSや年賀状などで交流を続けてくださっていた。
やっとぷらぷら人生にも腹を括ってきた頃に思い切って先生に「作品を売って欲しい」と連絡したのが去年の春頃のことである。

もう社長にはなれないと思ったし、まぁなれたとして近い将来の話ではないな、と。
でも先生の作品はほんとうに欲しくてたまらなかったから、正直に話してみた。「社長室に飾るのは叶わなそうですが、ポストカードサイズの作品なら買えるかもしれません、青系の作品が欲しいのですが売っていただけますか?」と。
優しい言葉とともに、「額装したいけどちょうどいい額縁がないので少し遅くなりますがそれでもよければ」というような返事をもらったと思う。

やった!やったやったやった!
憧れの大人の、大切な恩師の、大好きな作家さんの、作品が手に入る!!!そう思うと小躍りするくらい嬉しかった。

そして6月の9日、わたしの誕生日に日付指定で送られてきた作品はわたしの想像をはるかに超える、ものすごくすてきな、あぁ、すてきな作品に対してそのすてきさをわたしの語彙力では表しきれないのが悔しくなるほどの、もうこれですこれ!欲しかったのはこういう絵です!というイメージ通りのものだった。わたしのための絵にさえ思えるくらい、先生の作風のなかでわたしが特に好きな部分が詰まっているものだった。ブルーという寒色なのに、とても暖かいイメージで、穏やかな気持ちになる絵だった。かわいいバースデーカードが添えられていて、恐る恐るお代を振り込みたい旨を伝えると、「これはお誕生日プレゼントだよ」と言われてしまった。今までわたしにプレゼントを下さったたくさんの方々には申し訳ないが、きっと一生これを超えることはない人生最高の誕生日プレゼントかもしれない思った。

タイトルを聞くと、「タイトルは静謐灯(せいひつとう)です。
静かで、大きくて暖かい灯。行き先を見守ってくれる灯のイメージで制作したものです。」と教えてくださり、「あぁ、きっとこの絵がわたしの行き先も見守ってくれる、灯になる」と思った。

いまもわたしの部屋には神棚のように、美しく額装された静謐灯が輝いている。
さすがに手を合わせたりはしないけれど、つらいとき、悲しいとき、いつもかみさまのようにこの灯に向かって心の中でそっと祈る。「わたしのことを、静かに見守っていてください」と。

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