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美術史第30章『新古典主義美術-前編-』


イギリスの13植民地
アメリカ独立戦争のバンカーヒルの戦い
アメリカ合衆国の初代大統領ワシントン
啓蒙的なアメリカ合衆国憲法

  18世紀末期、自然権、法の下の平等、社会契約論、人民主権論など理性による人間の自由を唱えた現在では当たり前となっている啓蒙思想の広まりにより、イギリス(当時のグレートブリテン王国)の植民地だった北アメリカ大陸の13植民地が結束し植民地支配に抵抗、「アメリカ独立戦争」を行い、当時ではほぼ全く存在しなかった王や皇帝などの君主がいない共和制の国家「アメリカ合衆国」が誕生した。

フランス革命で前線に立った民衆
革命のきっかけとなった銀行家ネッケル
処刑された最後のフランス王ルイ16世
フランス革命戦争のナイルの海戦
フランスが支配下に置いた北部・中部イタリア

 さらにそこから数年後にはブルボン朝フランスで「フランス革命」が勃発、王は処刑され封建的な特権も廃止、「フランス共和国」が樹立され、これに反発した神聖ローマ、プロイセン、イギリス、スペイン、フランスの旧支配層の残党、ポルトガル、サルデーニャ、ナポリなどのヨーロッパ諸国との間に「フランス革命戦争」が勃発し、フランスが勝利してイタリアの中部・北部を獲得した。

ポンペイ遺跡
ポンペイの通り
ヘルクラネウム遺跡のボートハウス

 この頃の西洋美術はフランスを中心として発展しており、近代美術は大きく分けて新古典主義、ロマン主義、写実主義の三つの様式があったとされ、最初の新古典主義は18世紀前半に火山の噴火により埋没し当時のまま保存されていた古代ローマの都市ポンペイとヘルクラネウムが発見された事で、ルネサンスの始まりと同じように古代の美術を規範にしようとする風潮が生まれた。

第2章でも触れたヴィンケルマン

 そして、古代の研究を行なった美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが古代ギリシアの美術を最も理想として賛美した事でこの風潮は加速、ギリシア美術の模倣を行う志向はヨーロッパ全土に伝播した。

新古典主義の彫刻『アモルの接吻で蘇るプシュケ』

 その志向はロココ美術やバロック美術の装飾的で官能的な美術に対する退廃的で貴族主義的という反発などを背景に、古代と同じく形式的な美や写実性を重視する「新古典主義」が誕生し、これが西洋美術の中心となっていたフランスの芸術アカデミーでも主流となっていった。

ロマン主義の代表的画家ドラクロワの作品

 理性を重視する啓蒙思想や古代を復興したい新古典主義が広まる一方、この頃のヨーロッパでは合理主義や理性偏重に対して個人の感受性や主観を重要視し、恋愛の賛美や民族意識の高揚、そして中世への憧れのような特徴を持つ「ロマン主義」という思想が広まっており、これは文学・美術・音楽など様々な芸術分野の様式にもある程度、影響を与えた。

ブリュメール18日のクーデター
統領政府、真ん中がナポレオン
皇帝となった戴冠式のナポレオン
ナポレオン戦争の様子

 フランス革命戦争中の1799年のフランスでは「ブリュメール18日のクーデター」により「統領政府」という三人の有力者により政権が成立、しかし数年後には統領の一人である軍事司令官ナポレオン・ボナパルトが全ての権力を握るようになり、再びヨーロッパ諸国との戦争が開始するとナポレオンは自ら「皇帝」となってフランス帝国が誕生、「ナポレオン戦争」が勃発することとなった。

ダヴィッドが描いた『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』
グロがナポレオンの肖像
帝政様式の品々が置かれたナポレオンの居室

  フランスの軍人ナポレオンが皇帝に就任するとフランス帝国の栄光を誇示する「帝政様式」が確立され繁栄、また、ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ、つまり政治的な意図を国民に植え付けるための宣伝行為の手段であると捉え、ナポレオン家の様子や側近の様子を描いた絵画が大量に描かれた。

ウィーン体制の地図

 これによりフランスの美術はフランス国外に受け入れられなくなり、フランスは美術の中心ではなくなっていき、その後の1815年にはフランスが敗北し終結、ナポレオンは追放されブルボン朝の王が復活、「ウィーン体制」と呼ばれるヨーロッパをフランス革命などの前の状態に戻すためのヨーロッパ諸国の協力帯が誕生、ヨーロッパは安定を取り戻すこととなった。

 結果、フランス美術の影響下から脱したヨーロッパ諸国が其々の歴史や風土に根ざした美術を開花させてゆくこととなり、古代美術の模倣ではなく各国の美術の特殊性に関心が向き、古典美術が無条件に最も優れているという考え方は消え、モチーフなどに応じて古典美術や民族美術など様々な様式が選択されて用いられるようになった。

ギリシャ独立戦争のナヴァリノの海戦

 ウィーン体制で安定したヨーロッパであったが1820年代半ばには「ギリシア独立戦争」が勃発しフランス・ロシア・イギリスの支援を受けたギリシャ人がオスマン帝国から独立するという戦乱が起こった。

7月革命の様子

 1830年には「7月革命」が発生してブルボン朝が再び崩壊しルイ・フィリップが王位に即位、しかし七月革命を行なったメインのブルジョワジー階級、つまり市民の中から生まれた富裕層達が貴族や王族に代わって特権階級となってしまい反発を生んだ。

フランス2月革命
イタリア統一運動のきっかけとなったミラノの5日間

 これらにより19世紀中頃の1848年、民衆の支配層への不満が爆発し「1848年革命」や「諸国民の春」と呼ばれる社会の大動乱が発生、具体的にはブルボン家、ローマ教皇、オーストリア帝国の支配地域と、サルデーニャ王国の勢力に別れていたイタリアでイタリア統一運動が発生、フランスでは二月革命が発生しフランス共和国が復活した。

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