インターネットが一つのおっきなコミュニティだとすると

そこの住人が読みたくもないものはいくら書いても読まれるわけがない。

そこの住人はかなり多様だと言われていて、そこで読まれないようなものは、インターネット以外の世界でも読まれはすまい、と一般的には考えられている。

必ずしもそうとはいえない、と私は考えるけれど、そんなことを今ここ(インターネット上)で言っても仕方がない。

今回考えてみたいのは、テキストを書くに当たっての対象の設定について。

ここ数年私が博士課程の勉強の延長で考えていること(例:道徳とか内心重視のお話)は、ぶっちゃけみんなに聞いてもらいたい、という無謀なことを考えている。

ここまでnote上で公開した文章を、ありがたくも、読んで下さった方々からすれば、「う、ウソでしょ?」というのが率直な感想と思う。「みんなって、、、どんな人にでも???そんなつもりで書かれたとは到底思えない。」という感じ。

書いた本人ですら読みにくいのだから無理もない。

みんなに読んでもらいたければ、何か根本的に変えなければならない。はずだと自分でも考えている。

インターネットがおっきな一つのコミュニティだ(とある種類の人々は参加していない)としても、そこに暮らす住民は結構多彩だ。これは間違いないだろう。

ならば、ターゲットとなる読み手って絞られるべき。

ウケるウケない関係なく、そうしないとただただ”みんなにとって”読みにくくなるのよね。。。

では、このインターネット上の多彩な住民の中で、私は、一体どういう人々を読み手にしたいと思っているのだろうか?”みんな”というアホな理想はさておき(いやそれを本気で目指しているのなら)、最も語り掛けたいと思う人たちがいるはずだ、という気持ちで、ターゲットを絞ろうとするべきだろう。必ずしも、2つ以上のターゲット・グループが同時にあっちゃダメ、ってこともないだろうし、なんなら、ターゲット毎に書き方変えるつもりでやればいいんだし。

よく考える方の人にはちょっとスローダウンを。

あまり考えないけども、漠然とした不安は結構おっきい感じの人には、考え方のお話。シンプル。でも、シンプル過ぎないように。時間をかけてゆっくりと。シンプルな段階を一つ一つ丁寧に踏んでいくやり方の推奨。

よく考えるといっても、前向きと、内向きとでは違う。

前向きは外向きともいえる。ちょっと自慢入り過ぎ。それもこれも成果を出し続け(ていると主張す)るため。そうしないと稼げない。

内向きは、一見、内心重視の私好みのようで、多くの場合そうでもない。どちらかというと似ている者同士だからこそ起こる、細かい違いに対する過敏さのため、あれこれと疑問を呈したくなる。ってことは、この層かな?私が一番語り掛けたいのは?と思えないではないけど、多分違う。どちらかというと、放っておいても概ね大丈夫。細かい点を議論し合うことになるのだけれど、そんなことに費やしている時間もエネルギーも、私にはない。

よく考え、かつ、それが外向き・前向きな人々に対して、若干の抑制を促したい。らしい。どうやら。

自己3面説

ゆっくりやった方がいいよ。もうちょっと。

それを説得的に話せなければならない。

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よく訓練された軍隊は強い。

でも、私たちは軍人じゃない。

軍人さんだってその他の生活はある。

アゴタ・クリストフさんの三部作『The Notebook』、『The Proof』、『The Third Lie』のどこかで出てきた将校さんを思い出す。

フィクションだし、現実の将校さんがどんなだかは知らない。

でも、しばし占拠していた居所の退き際、同所の住人でかわいがっていた子ども(主人公)に「私があげた辞書は捨てなさい。これからは別の言葉を学びなさい(学ぶことになる)。」と伝える感じは、戦闘ばかりではない、戦の現実が描かれているように思えた。

戦いのメタファーで、私たちの世の中の一部なりとも説明することは、おそらくなくなりはしないだろう。

それが戦いなら、よく訓練し合い、的確な戦略でもって勝ち抜いていかなければならないのだろう。

そのストーリーからすっかり逸脱することが現実的には不可能であったとしても、いや、だからこそ、急がない方がいいってこともあると、私は考える。

戦うしかないなら、できるだけ美しく勝ちたい。

いや。負けたらそこでお終い。どんな手を使おうがまずは勝つ。

忙しい現代を見ていると、後者の傾向の方が強いのかな?と感じる。

葛藤がなければ強いよ。そりゃ。

全員を等しく救うことはほぼ不可能だ。

だからこそ、生き残れた人には、その人生を大事に生きてもらいたい。

できればみんなを救いたい。

そりゃみんな同じ気持ち。

でも現実的に無理だから、正当化を試みる。

何も考えないようにして全てを流れに任せるのだって正当化の一手段だ。

それでもいいんだ。分かっているなら。

死んじゃった人々の存在をすっかり消してしまってはいけない。「分かっている」というのはそれぐらい微妙な内心の問題。

言葉に出すなら、死んじゃった人を中々悪くは言えない。

その気持ちを大事にしよう。

忘れずに語るなら、多分いいことの方が多くなるはずだ。

そんな気持ちが湧くことを、しばし、生きている者自身の慰めとしてもいい。

けれども、生きている以上、来るべき未来にも目を向けよう。

自分もいずれ死ぬんだ。

戦い続ける覚悟ならそれでもいい。

ただ一瞬では終わらないよ。

圧勝できるとしても。し続けられるとしても。

その間は生きる。

「美しく勝つ」は決してキレイ事、夢物語というだけでは片づけられない。

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こんな語りってどうだろう?

急いでいるひとたち。少しは抑制効きますか?

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