肯定って思っている以上に難しい

アイロニーをメインのスタイルにしようと考えている私。

パッと見た感じ、否定的イメージを抱かれやすい。愚痴垂れ流し。。。とはいかないまでも”文句垂れ”

事実、私はアクション偏重を揶揄したり、何かと徒党を組もうとする傾向を批判するし、前向きな姿勢を”ファナティック”だと思っている。

でもアクション偏重揶揄もネットワーキング・前向き信仰批判も、別に否定的なものではない。

真逆。

目に見えるアクションの裏には必ず陰になる部分があるし、グループやコミュニティなんて、やさしげな名前に反してそこに混ざれない人は沢山いるし、前向きな姿勢にはある種の弱さも垣間見える。

つまりは、陰陽なら陰、可視不可視なら不可視の方にも目を向けよう、ということを言い続けたいと思っている。

現状に満足しないなら、どこにどんな問題があるのか?を明らかにする必要があるだろう。

いや。その前に、そもそも現状ってどーなっているんだろう?ということをできるだけ正確に知ろうとすべきだろう。

現状確認の方法:客観的データだけが絶対か?

ぼんやりと思いを巡らすだけでも私はそれなりに意味はあると思っているけれど、アクションとれなきゃ何も起こらないし意味もない、と考える人々なら、様々なツールを駆使して、現状についてデータを収集しようとするだろう。

そうした現状を表すデータというものは、俗に”客観的データ”などと呼ばれる。

客観的データなるもの、現状を把握し、もって、過不足を認識したり、改善点を見出して、それに沿った改善策を講じたりするには必要不可欠ではある。

そうではあるんだけれども、客観的データがなけりゃ現状について何も語れない、と思い込み過ぎるのはいかがのものか?

客観的データなんてものがなくとも、現状を確認することぐらいできないのだろうか?

なぜそんな無謀を言うかというと、データの客観性なんてものは、そんなに簡単には確保することなどできないから。

「簡単にデータ収集できるツールも出回っているし、誰だってやろうと思えばできますよ。データ収集。」

ほぼ善意のプロモーションかもしれないけれど、私には、”参画圧力””にも”聞こえる。

「誰だってやろうと思えばできるのに、それをやらない人なんて面倒見てらんない。」

そんな感じ。

「出来る人がどんどんやって、出来ない人たちを助ければいいんじゃないの?」というのが私の本心なんだけれども、それが極端過ぎて受け入れられないとして、”客観的データ”収集マニアックな態度というものは、実はもっと根本的なところでスルーしてしまっていることがある。

どんなに簡便、優秀なツールであろうと、それを使おうと思うきっかけってものがある。

現状把握は、「どんなデータ収集方法があるか?」からスタートするんではない。

生きているのは個人個人。

個人個人で感じていることなんてバラバラだ。「現状どーなってんの?」なんて別に感じてもいない人だっているかもしれない。

それでも、スタートはそうした個々人の感覚。

もしも「現状どーなってんの?」って疑問が起こるなら、その疑問の出所をこそまずは探るべき。

人によっては客観的データなるものや、それに基づいた論考などなども活用しようとするだろうし、それを妨げるものではないけれど、自分が感じたことをより具体的にイメージできるように探りを入れる方法が、そうしたフォーマルなものばかりということはないだろう。

自らのこととはいえ、ふと感じるか感じないかというような微妙な感覚について探索するというのは容易ではない。いざあらたまってやってみようとするなら、やはり何らかの方法論を学んでいたり、手近に信頼性の高いツールがあった方がいいに決まっている。

とはいえ、しつこいようだけども、確立された方法論やツールなどに頼るのは、あくまでもそうでもしなければカタチに表せないからそうするのであって、じっと見つめるべきなのは個々人がそれぞれに感じる感覚なのだ。

容易にはカタチにならないからといって、気持ちとは無関係とはいえないまでも、明らかに別のモノに注意を向け、気持ちを忘れ去ってしまっていてはいけない。ましてや、「気持ち?何そのあやふやなモノ?所詮プライベートなことじゃん?拘ってなんていられないでしょ?社会に貢献するような事業や活動に従事しなよ。」なぁんて言って、気持ちについて真摯に取り組むことを蔑むなんてことはしてはいけない。

そもそものスタート地点たる、個々人が感じる感覚、気持ちを安易に離れて、多くの人々の目にほぼ間違いなく映っているであろう事象や、その存在についてほぼ論争の余地がない問題などにばかり注意を向けるのは、きっと何か社会的なものからのプレッシャーを受けている。つまり、じっと個々人の気持ちを見てなんていられない、と思わされている

何度も繰り返します。

知識とは私たち人間のこの世に存在する仕方。

どんなにソフィスティケートされた理論に基づいた、正確なデータを収集可能なツールであろうと、必ず「誰が使っているのか?」という問いに戻って来るようにしなければならない。

「私たち一人一人の存在の仕方」というと大層な感じがするけれど、話は簡単。

”客観的データ”ならば、それが本当に客観的といえるかどうか?も大事だけれども、もっと大事なのは、それを誰がどのように感じてどのように活用しようとしているのか?

それらを全部含めてやっとこ見えてくるのが、「そのデータを集めた人の存在の仕方」。

”客観的データ”が本当に客観的だとしても、それがオートマチックに現実を表してくれることはない。「これが客観的事実だ」と主張する人。その人の意思、気持ち、主張するまでに至ったプロセス、そして、まさに今それを主張している様。全部含めて「現実」はコミュニケートされる。

コミュニケーション、信用、自他の存在肯定

さらに忘れてはならないこと。

そうした「現実」は、原則、伝えられる側の人々がどのように読むか?理解するか?について、全くコントロールすることなどできない、ということ。

コミュニケーションは永遠に続く。

勿論実際には適宜区切りはつけられるけれど。

「永遠」が「バカバカしい」とか「キリがない」などといって、「目に見えるものを客観的指標に基づいて評価するしかない」と結論付けるのは、自縄自縛的であるのみならず、道徳的に”よくない”諦め。宿命論。現に生きていて、しばらくは生き続けることを”知っている”という事実に照らせば、無責任な態度。

一人一人が自分自身がこの世に存在するということを肯定的に見ることが必要だ。

けれども、私たちはみな、沢山の人々と関係を持ちながら生きている。

「一人一人の存在を肯定的に見る」といったって、それはよくある、「自分らしさの評価」とか、「個々人の持てるリソースを肯定的に評価」とは違う。

どんな見られ方、理解のされ方をされようとも、他者を信頼して、その時その場所での自分の存在の仕方を、彼女・彼らの目の前に晒すということ。

信仰なるものも、神さまありき、ではない。

合理的科学的な手法によって本当に様々なことが明らかにされてきている21世紀。丁寧に理屈で考えるなら、「信じる」ということは、ともかく私たち人間同士の問題だということは明らかだ。

「自分自身がこの世に存在することを肯定的に見る」ということは、いかなる他者の存在も肯定的に見るということ。

日常の感覚に戻れば、まず完遂などできないことが分かる。

それでも、「信じることさえできたなら」ということが見えないわけじゃない。

信仰なるもの、神さまのようなものに、「信じる(信じられない)」という私たち人間同士の問題を投げかけたくなる、避け難い弱さの現れ、というだけでなく、自他共に信じたい、信じられたら、という願望、それにたまにではあっても正直であろうとする勇気。そうした肯定的な性質も含まれている。

肯定的な性質がある以上、それをないものとせず、存在を肯定しようと努力ぐらいはすべき。

一人じゃ無理だし、一生かけて成し遂げられるようなことでもない。

ここまでの歴史を冷静に踏まえて、無理なく、合理的に、みんなで取り組んでいく。そんな気持ちが必要なんじゃないだろうか。

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