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「智、情、意」に従った一定の限度を越えない

松下幸之助 一日一話
12月10日 限度を越えない

社会には、いわゆる常識というものがあります。そしてその常識に従って、ある一定の限度というものがあるはずで、たとえば、お金を貯めることも結構なら使うのも結構ですが、その限度を超えて吝嗇(りんしょく)であったり、また金使いが荒く、借金だらけであるということでは、世間が承知しません。やはり、収入の範囲において、ある程度使うということが許されるわけで、これを越すと信用問題が起こってくることになります。

何をするにも、その限度を越えないように、お互いに十分注意し合い、行き過ぎたことは遠慮なく忠言し合って、おのおの責任感を持ってやっていくことが望ましいと思うのです。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

「常識に従った一定の限度」を考えるには、先ず、「常識とはいかなるものか」について考える必要があると言えます。常識について、渋沢栄一翁は著書の「論語と算盤」にて以下のように述べています。

 およそ人として世に処するに際し、常識はいずれの地位にも必要で、また、いずれの場合にも欠けてはならぬことである。しからば、常識とは如何なるものであろうか。余は次のごとく解釈する。
 すなわち、事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見別け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば、「智、情、意」の三者が各々権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力が、すなわちそれである。人間の心を解剖して、「智、情、意」の三つに分解したものは、心理学者の唱導に基づく所であるが、何人といえども、この三者の調和が不必要と認めるものは無かろうと思う。智恵と情愛と意志との三者があってこそ、人間社会の活動もでき、物に接触して効能を現してゆけるものである。…
(渋沢栄一著「論語と算盤」より)

つまり渋沢翁は、常識とは「智、情、意」のバランスが取れた状態であると述べているということです。では「智、情、意」に従って一定の「限度」を越えないとは具体的にはどのようなことなのでしょうか。

常識ではなく世間一般の認識としては、お金に関する智恵、すなわち金融リテラシーが不足するあまりに、借金イコール悪という認識を持つ人が多くいますが、智恵を持つ指導者が率いる経営においては、「智、情、意」に従って一定の「限度」を越えない借金は、信用を生む経営手腕の1つであるとも言えます。

具体的には、松下翁が実践された「銀行からお金の借り方(ダム経営)」が参考になります。

 最近は、銀行から金を借りますと、両建て預金を、というようなことがいわれます。それについては、政府なり日銀なりが行き過ぎだと反対して一時話題になりましたが、私はいまから五十年以上も前に、銀行にいわれなくても自分でそれをやっていました。

 それはどういうことかといいますと、銀行から金を借りるときに、一万円借りたらいいなという場合でもあらかじめ大目に二万円借りるのです。そして余分の一万円をそのまま定期預金にしておくようにしたのです。そうしますとこれは両建て預金と一緒で、高い金利を払って借りた金を安い金利で預けておくわけですから損です。しかし私は、それを損だと思わずに、保険料だと考えていました。そうしておけば、必要なときにはいつでも引き出して使えますから、資金に余裕があります。そういうことを銀行から要求されてやったのではなく、自分の方からしたわけです。ですから銀行は、松下さんのやり方はかたい、といつも信用してくれました。

 これはいうなれば、借金をするのにも余裕をもっていたということになると思いますが、私は昔から、そうした余裕をもった経営というものを心がけてきました。そのことを私は、自分なりにダム経営と名づけているのですが、この場合には、いざというときのために借金で資金のダムをつくっていたわけです。

 もちろんダムが必要なのは、資金の面だけではありません。「人材のダム」「設備のダム」「在庫のダム」「技術のダム」というように、適正な経営をしていくためにはあらゆる面でゆとりを持つことが大切だと思います。つまり、なんでも目一杯のやり方をするのは危険だということです。

 したがって、ダム経営というのは、絶対に有利で得をするというものではありません。資金でも設備でもダムをつくっただけでは利は生まれませんし、目一杯使った方が得です。しかし、ダム経営をしていけば、大体堅実で失敗が少ないということがいえると思います。ですから、長い間安定発展をしていこうと望む企業には、ダム経営は不可欠のことだと思うのです。

 それは別のいい方をすれば、自己検討、自己評価というものをしっかりして、五十キロの重さのものを持つ力があっても、四十キロでやめておこうということです。五十キロ持てるからといってムリをすれば、つまずいて転ぶこともあります。しかし十キロの余力を残しておけば、そんな心配はまずありません。要するに腹八分目の経営です。たとえば百の設備をしても動かすのは八十で、あとの二十はとっておく。そうすると、いざというときの需要に十分応えられます。これからの経営はすべてそのように腹八分目経営でしかも適正利潤が得られるということを考えてやらなければならないと思います。

 もっとも、現実に百の需要があるという場合に、生産を八十に押さえるというのは消極的すぎる面もあります。ですから九十まではつくる。しかし百はつくらない。それでは売れ残る心配が大きいわけです。

 大事なことは、百の需要を正確につかむこと。百二十の需要を百と判断してもいけませんし、八十の需要しかないものを百と判断しても失敗します。ということは結局は、ダム経営をしていても的確な判断が大切ということになるわけです。
(松下幸之助著「経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」より)

松下翁のダム経営における「智」とは、両建て預金に関する知識や、自己検討・自己評価をする認識力、或いは、需要を正確につかむ的確な判断力と言えます。「情」とは、両建て預金によって心理的にも資金的にも生じる余裕や、いざという時の需要に十分応えられる生産における余力のことになります。「意」とは、五十キロの重さのものを持つ力があっても、四十キロでやめておこうとする腹八分で抑える意思のことであると言えます。この「意」を換言するならば、「足るを知る」ことであると言えます。即ち、知足の心のことです。

中国古典の一つであり厳しい時代をしぶとく生き抜くための智慧が書かれた「老子」には次のようにあります、

「足ることを知る者は富めり。 強(つと)めて行う者は志有り」(老子)

満足することを知っている者は富者であり、努力している者は志ある者であると言えるという意味です。

これらの「智、情、意」のバランスを理解するということが常識を知るということであり、バランスされたことによる限度を越えないことが重要であると松下翁は仰っているのであると私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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