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スケーターの社会学~街をサーフィンする~

駅裏や公園に響く、ウレタン製のタイヤと地面が摩擦する音————。

小さな四つのタイヤに彼の全体重がかかる。それが地面と摩擦する。その音が消えたと思ったら、
乾いた木の板がコンクリートを弾く高い音が鳴り、板は彼を乗せたまま宙を舞う—————

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私が初めてスケーターに眼差しを向けたのは、ロサンゼルスを旅していた時。車どおりが多い通りを、恐れもせずラフな格好をした数人の若者が駆け抜けている光景を見たときに衝撃を受けた。

日本ではありえないほど、車に接近して走っていたり、すごいスピードで坂を下っていたり。文化や遊びと言えど社会はこのスケーターの事をどう感じているのか興味がわいた。

そこからスケーターに興味を持った私は、社会とスケーターという構造で何か考えられるのではないかと感じ、今回の記事を書いてみる。

なぜ彼らは、人や車が多い街を走るのか。

それは彼らの”街を見る視点”が普通の人と違うからではないかと思う。

スケボー文化

発祥時期は諸説あるが、1940年~1950年のアメリカ・カリフォルニア海辺発の若者文化として普及した。

サーフィンを地上でもできる娯楽用品としての背景とし、スケボーは誕生期から都市空間を海に見立て自然と対峙する身体を意識した遊びの一つだった

それが文化となり、国境を越えて広まり、今やオリンピックの競技にもなっている。

でも実際に街で見かける彼らは、早いスピードで私たちの横を通り過ぎたり、大きな音を鳴らしたりと、一般の私たちはスケボーをしている人にいいイメージを持たないかもしれない。

でも一体なぜ彼らは人がいる所でそういうことをするのか。
目立ちたいから?人に迷惑をかけたいと思っている?

いやそれよりも彼らの街に対する視点が普通の人と違うのではないか。

街を海に見立てる

横乗り。街に波を見つけサーフィンする———

きっとスケーターにとっては、「どこでどういう滑りをしようか」と、私たちが見ている街とは、まったく違う視点から見えているのだろう。

階段の手すりに板をかけて滑ったり、花壇の角に乗ったり、地下通路を駆け抜けたり。

私たちが普段暮らしているだけでは持ちえない視点を、彼らは持っている。私たちが階段や花壇に見えている建築物は、板に乗っている彼らには乗らざるを得ない波にしか見えないのだ

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自分たちで街にあるものを自由に発見し、活用し、遊ぶ。彼らにとってその街自体が遊び場になるのだ。

その社会の間に抜け道を探すような感覚こそが、若者の間で共感されている感覚だと思う。

まさに公共空間である街に自分たちの居場所を探す

これはまぎれもなく、彼らの社会の中におけるアイデンティティの確立にも大きな影響を与えているだろう。

流動的コミュニティー形成

どんな人がスケボーをやるのか。

私が実際にスケボーパークに足を運んで感じてのは、本当にいろんな人がいるという事。

小学生くらいの子供、昔から乗っているおじさん。
普段会社員として働いているけど、休みの日には滑りに来る人。近くの大学生達。男性が多い印象だが、女性もよく見かける。年齢や性別問わずスケボーは社会の端のいたるところで文化を形成してきたのだ。

この幅広い年齢層から読み取れることは、スケボーの流動的なコミュニティーの形成力の高さだ。

毎日違う人がそこに足を運ぶ。顔なじみの人もいれば、まったく知らない人ももちろん来る。途中で帰る人、途中から混ざる人。そこに来る人は、流動的なのだ。しかし、私が見ていて思うのが、年齢層も違う、また毎日来る人も変わるコミュニティに何かしらの一体感を感じる

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その人の滑りを見て周りが歓声をあげたり、他人同士のはずの人がグータッチをしていたりする。

そんな流動的な他人ともスケーターは気が付けばコミュニティを形成している。

運動による身体的解放感もあるだろうが、根底にはきっとスケーター同士が共通のアイデンティティを持っているからだろう。
服装であったり、同じくスケボーをやっている認識であったり。

そして何よりも「自分の身体を使って、街遊びをしている」というアイデンティティではないだろうかと私は感じる。

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スケーターが向ける街への視点の応用~公共資源とその利活用~

今や街の中でもスケボーを規制するところも増えてきている。

社会はどんどん規制が強くなり、本来の目的以外の用途を認めない公共施設が多くなっていると感じている。

でも私は、このスケーターが向ける街の見方を変える視点というのは、一辺倒な街を創造性のある街にする上では重要な視点になるような気がしている。

ここにも書いたことはあるが、今の社会は街の見え方が一辺倒だと思う。

例えば、駅は電車を乗るところとしか見えていなかったりする。

でも見方を変えれば、人がたくさんくるところだし、広いスペースがある。
そこで映画館を開いたらどうだろうとか、フェスを開いたらどうだろうとか

一度駅であるという概念を捨てることによって、自分の駅に対する視点が変わって、想像力が膨らみ、これまで駅としてしか使われなかった空間を、だれも考えたことない、ユニークでワクワクする空間にできるんじゃないかって思えてきたりする。

実際にそれを実行するには、いろいろな規制があって難しいかもしれないが、街を見る視点を変えれば、自分が住む町に希望が持てるのではないか。

きっと有効活用できる公共施設はたくさんあるはず。

それを見つけさせてくれるのが、スケーターの視点だと私は思う。

私は現代の一辺倒な街に資源を見出し、子どもの空想の世界のようなユニークな街を作っていきたいなと思っています。

社会学や文化人類学の力を借りて、世の中に生きづらさを感じている人・自殺したい人を救いたいと考えています。サポートしてくださったお金は、その目標を成し遂げるための勉強の資金にさせていただきます。