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つよがりと言い訳(その1)

私はちょっと複雑な家庭に育っています。
母は2回の離婚の後、3度目の結婚は相手に騙されていたという曰く付きで、私も血は争えず、2回の離婚をしています。
母が父と仲違いをし、子どもたちが振り回されるたびに、弟はため息を付き、こう言いました。
「俺が大人になったらこんな親には絶対ならない」
私も弟も、幼いときに母の手を一度は離れ、別の暮らしをしていました。
私は父方の実家で祖母と暮らし、弟は母の友人宅をたらい回しにされていたのだといいます。
母は母親として生きるのではなく、女として、人として生きることを常に選択する人だったからです。
私達姉弟が母の手元を離れたのも、母が父とは別の人に恋をしたからで、実父との離婚のために、子どもたちを手放す決心をしたようでした。
私達がそれぞれの環境で暮らして数年が経ち、母と恋人は弟を引き取って3人で生活をやり直そうとしていたときのことでした。
その時、父方の親戚から「あのままだと本当にまずい」と私の噂が聞こえてくるようになったのだといいます。

祖母のもとで暮らしたのは2年間。
3歳から5歳という、物心がついていろんなことを覚えることでもあり、ひととして育つのに大切だと言われている時期でもあるといいますよね。
父方の親戚がみんな揃って「あの子を引き取ってあげて」と母方の実家に来て懇願したそうです。
なんでそこまで、と状況を聞くと、貧しさから食事も満足にとれず、お風呂はもらい湯でたまにしか入れず、自分の着るものは自分で手洗いするのが当たり前で、家から出るのを禁じられ、保育園には通うものの不潔なために友人は全くおらず、誰も近づかない状態だったといいます。
おそらく親戚から見て、当時ですら「児童虐待」として写ったのでしょう。
もっとも、そうなってしまったのには込み入った事情があるのですが、ちょっとここで明かすことは出来ません。
ただ、祖母は私に八つ当たりでもするかのように厳しくあたり、気がつけば笑わない子どもになっていました。
そのためなのかなんなのか、私は3~5歳の2年間の記憶がほぼありません。まあ、小さい頃の記憶なんてそんなものなのかもしれないけれど。
覚えているのは、おばあちゃんがうどんを作ってくれたことと、いちごの寒天寄せを作ってくれたこと、お風呂に入るときに絵本を持っていこうとして叱られたこと、保育園でシーソーをお友達が一緒にしてくれたこと。そして、近所のお家の親御さんのご好意で泊まりに行ったら、お風呂に入れてくれて、ふわふわの大きなタオルで体を拭いてくれて、真新しい可愛いパジャマを着せてくれて、初めて見るテレビでゲッターロボを見せてくれて、大きなエビフライやハンバーグなどの、祖母と住む自宅では見たことのない、溢れんばかりのごちそうがテーブルいっぱいに並んでいる光景に、ただただびっくりして、エビフライをしっぽまで食べて笑われたり、今思っても夢のような夜だったように記憶しています。
今思うと、ごくごく当たり前の日常のことでもあり、それがいくつか思い出されるだけです。


たまに父親が夏休みになると帰ってきて、蛍狩りに連れて行ってくれたりしたのを覚えています。虫かごで光る蛍は綺麗だったけど、翌朝にはかごの隙間から逃げて、夢のようにいなくなっていたり。
父も蛍と一緒に、どこかへ行ってしまってもういませんでした。
毎日、道路に面した平屋造りの家の片隅に座って、おもちゃ代わりにもらった子供用の手鏡を使って遊ぶ日々。
洗濯をするからか手が荒れ、手の甲が痛かったのを今でも思い出します。
そしてある夏の終わり、父が私のところにやってきました。


父は小さな車で祖母の家にやってきて、私の着るものを一通り積み込むと、車に私を乗せて、どこかへと車を走らせました。
途中「飲み物とかいらない?」と訊かれて、アイスをねだりました。
当時流行っていたんでしょうね、アイスキャンディの棒の部分がパズルのように組み立てられるやつをリクエストしました。
今思うと、1個だけでは何の役にも立たないのに。
小さなよろずやさんのアイスクリームケースをしばらく物色した後、父が戻ってきて、そういうのはなかったよ、と別のアイスキャンディを買ってくれました。
普段は食べることの出来ないアイスキャンディを食べることが出来たのがすごく嬉しかったのを覚えています。
夏の暑い日差しの中、車が向かったのは東京の新橋でした。
なんだかゴミゴミとした金属製の階段を5階くらいまで登り、ある部屋の扉をノックしました。
そこには大伯母が住んでいました。
大伯母はいわゆる「働く女性」の先駆けのような人で、和文タイピストとして生計を立てていました。

今でこそ活版だとそれがわかりますが、見たことのない道具が部屋中にぎっしりと積まれ、部屋の真ん中にちゃぶ台がひとつの質素な生活。
父と大伯母がなにやら話をして、大伯母が父を叱っているのがわかりました。
テーブルの上にはお金の束があり、大伯母はそれを父に叩きつけるように渡し、私の手を優しくとって横に座らせました。
そうして大伯母が涙をこぼすのを見ていると、誰かが大伯母の部屋にやってきました。
母と2番めの父でした。
ちゃぶ台のところに駆け寄るようにやってきた母は、私の向かい側に座るとただただ泣いていて、なんでそんなに泣いているんだろうと思ったのを覚えています。
ただ、その人のことが「お母さん」だということはわかっていました。
幼い私にはよくわからない話し合いを大人たちは済ませ、私たちは帰ることになりました。
長い階段を降りると、母は手をつなぎました。
「お母さん、鶴折れる?」
それが私が最初に訊いたことだったそうです。
長い時間を経て、母が教えてくれて知りました。

母とふたりで次に行ったのは、母方の祖母の家でした。
静かな住宅街にある小さな家のチャイムを鳴らすと、祖母が待ってましたとばかりに扉を開けて、玄関先で泣きながら私を抱きしめてくれました。
「こんなになっちゃって。すぐにお風呂に入ろうね」
そう、お風呂に入れてもらえていなかったから、髪はゴワゴワに固まっていたし、身体も真っ黒で、来ているものはみんな丈が短くひどい姿をしていたと後に祖母は言っていました。
祖母がお風呂を準備してくれて、ゆっくりと時間をかけて身体の汚れを落とし、きれいな洋服に着替えた後、居間に行くと小さな男の子がいました。
先に引き取られていた弟でした。
それから暫くの間、祖母の家で弟と私は過ごしました。
レモンケーキをもらってはんぶんこにして食べたり、伯母が買い揃えてくれていた世界の童話を毎晩祖母が読んでくれたり。
ときにはデパートに行っておもちゃやお菓子を買ってもらうこともありました。
新橋に住む大伯母を訪ねていって一緒に食事をしたり、駅前の噴水で鳩にエサをあげて遊んだり、いわゆる子どもらしい遊びをたくさん、たくさんしてもらいました。
写真こそあまり残っていませんが、当時のことは自分にとってのあたたかな思い出になっています。

さて、祖母の家で過ごす日々がずっと続くわけではなく、さらに引っ越しをすることになりました。
祖母の住む家から比較的近い、隣の駅の駅前にあるマンションに住むことになりました。
駅の改札を出て階段を降りたら、すぐのところにある薬局の上が新しい家。
部屋の窓からは駅のホームが見え、父が帰ってくるのが見えるほどでした。
駅前は大きな商店街で、近くにはパチンコ屋さんとキャバレー、お茶と海苔を売る昔ながらのお茶屋さん、レコード屋さんに八百屋さんと、いろんなお店がありました。
幼稚園にも通うことになりました。
線路を隔てて駅の反対側にあった私立幼稚園は、童謡の作曲家の方が園長を務める幼稚園で、毎朝たくさん並んだ楽器を思い思いに手に取り、音を鳴らすことから朝礼が始まりました。
仏教系の幼稚園だったので、お釈迦様にお参りして、それから授業がありました。
お絵かきとかいろいろしたけれど、今で言うスクラッチアートをやったのが記憶に残っています。
また、音楽に強い幼稚園だったということもあって、毎年学芸会があったのですが、アコーディオンを演奏することになったときは、体に対してあまりにも重く感じるアコーディオンが辛くて泣いてばかりいて、先生に怒られたりしていたのを覚えています。
けれども、幼稚園のことで何よりも強く印象に残っているのはお弁当の時間のことでした。


小さな子どものお弁当というと、今みんながキャラ弁を作るのと同じように、可愛らしい飾り切りの食材や色とりどりのおかずを詰めるのは当時も変わらないことでした。
幼稚園ではあたたかいお弁当を食べてもらうために、保温器を使ってあたためた状態で出してくれたり、いろいろと気遣いがされていたのですが、母の気遣いも、園の気遣いも、私にはある意味関係のないことだったかも知れません。
ともかく、お弁当箱の蓋をあけると、その匂いで吐いてしまうのです。
それがどんなに可愛く、素敵なお弁当だったとしても、それを見るまもなく匂いで毎日吐いてしまっていました。
幼稚園の先生と母が相談をして、いろいろと探っていった結果、お弁当箱に詰められるおかずのパターンが決まり、それで吐くことはなくなったのですが、そのトライ・アンド・エラーは大変だったんじゃないかなと思います。
ちなみに、おかずはウインナーと玉子焼き、そしてのりたまのふりかけをかけたご飯、という質素なものが唯一吐くことがないお弁当でした。
それを知らないクラスの子が「なんで毎日お弁当の中身が同じなの?」と聞くこともありました。
自分には上手く答えられなかったことを覚えています。
また、外に出かけたときにも同じように、決まった匂いがすると吐いてしまう子でした。
タクシーの革のシートにタバコの煙の染み込んだ匂いや、公衆トイレの匂い、珈琲の匂い。特に公衆トイレは当時まだデパートなどでもあまり清潔ではなく、遠く離れたところにあるのに、かすかに匂いがするだけでその場で吐いてしまうほどで、母は常にそれに悩まされていました。
後に聴いた話ですが、おそらく子供の頃に受けた心の傷やトラウマのようなものがそういう形で出ていたんだろうと思っていたそうです。
当時は小児精神科などもなかったし、どうすればいいのかただ悩むことしか出来なかっただろうなと思うと、それはそれでしんどかったのではないかと思います。
そんな中知能テストがあり、知能指数が145とかなり良かったため、母はちゃんと勉強をさせようと考えたようでした。
その頃から簡単なドリルなどを買い与えられていたのを覚えています。

また、友達が作れなかったことを幼稚園の先生が心配していました。
ひとり鉄棒で遊んでいると「お友達と遊ばないの?」と先生に言われて、それがどういうことなのかよくわからず、返事をしなかったことを覚えています。
そんな中、お友達になろうと声をかけてくれた女の子がいました。
商店街にある洋品店の娘さんで、一緒に遊んでくれるようになったのです。
その報告を先生から受けた母はとても喜んで、その洋品店に私を連れて買い物をしに行ってくれました。
そのお友達とおそろいのハンカチやパジャマを買い、プレゼントしたのを覚えています。
これまでの経緯から友達が出来ず、これからどうなるのかと心配していたでしょうから、よほど嬉しかったのだと思います。

少しして11月、母と父は結婚式を挙げました。
結婚式は弟の誕生日である11月8日に挙げられ、盛大にお祝いをしたのを覚えています。
私も出席しましたが、グリーンと茶色のスパンコールのあしらわれたワンピースを着て壇上に上がったのを覚えています。
結婚式のことはあまり良くおぼえていないですが、母にとっては新しい暮らしの始まりを意味する大きな区切りだったのではないかと思っています。


やがて、幼稚園を卒業して、近くの小学校に通うようになりました。
小学校は駅から商店街を抜けた大通りを渡ったところにあり、秋になるとイチョウ並木がとてもきれいなところに建っていました。
その頃はちょうどベビーブームということもあり、商店街のそれぞれのお店に同級生がたくさんいて、駅の反対側の出口に近い住宅街には高層のマンションも建設されたり、商店街を抜けたところには団地もあって、子どもたちがたくさんいた時期でもありました。
自宅の子供部屋の窓を開けると、お茶屋さんがほうじ茶を焙じる香りが漂ってきて、レコード屋さんは夜9時位までヒット曲を代わる代わる流しています。
休日の昼間はパチンコ屋さんの呼んだちんどん屋さんが音楽を奏でながら練り歩き、八百屋さんには威勢のいい声で品物を売るお兄さんがたくさんいました。
私自身は全く記憶に無いのですが、私は小学校に入ったばかりの頃、商店街の1軒1軒のお店の人全員に「おはようございます」と頭を下げて小学校に通っていたらしく、商店街のちょっとした名物になっていたことを後に知りました。
入学式では、校庭に並んで集合写真を撮りましたが、その後にある女の子を母から紹介されました。
母がいつも利用しているクリーニング店の娘さんが同級生だったのです。
Rちゃんの親御さんも「仲良くしてあげてね」と言っていたのですが、Rちゃんも複雑な家庭に育っていたことをその後知りました。

駅前のマンションに引っ越してからまもなく、母が夜働きに出るようになりました。
「Jちゃんのおうちに行くからお留守番していてね」
母はそう言っていましたが、Jちゃんの家に行くというのは嘘で、いわゆる夜の仕事をしに行くんだな、というのは、教えられたわけでもないのに分かっていました。
母が夕方に出かけて少し経つと、父が帰ってきます。
父はテレビを見ながら、母が作り置きをしたおかずをつまみに、冷蔵庫で冷やした瓶ビールを飲み、野球観戦をしたりして過ごしていました。
いつだったか、急に雨が降ってしまった日に、母から「お父さんを迎えに行ってあげて」と傘を渡されて駅まで迎えに行ったことがあります。
しかし、そういうときに限って残業だったらしく、2時間経っても戻ってこないことをおかしいと思った母が駅まで行くと、駅員さんに保護されていた、なんていうこともありました。
弟は夕方になると、窓から駅のホームを見ながら、父を見つけると部屋を出てマンションの階段を駆け下りていきました。
これだけ書くととても幸せそうに見えますが、もちろんそんなことばかりではありませんでした。



小学校に入った頃から、私は時折夜中に引きつけを起こすようになりました。
自分ではどうにもコントロール出来ないので、父が慌ててハンカチを加えさせたりして落ち着くのを待ったりするのですが、病院で調べても原因はわかりませんでした。
さらに、手のひらがひどい手荒れをするようになり、石鹸を使うことができなくなりました。
薬を色々変えても治ることはなく、漢方薬局に通ってみたり、これがいいといわれるものを母は出来る範囲で試してみるものの、効果が出ずにため息が出る、という具合でした。


そして、母は常にイライラしていました。
今思っても、やさしく笑っている母の顔を思い出すことが出来ないくらい、いつも怒っていて、辛く当たられた記憶しかないのです。
ときには「言うことを聞かないから」と弟とふたり、下着1枚で部屋の外に出されて家に入れてもらえずにいると、声が聞こえたことで気づいたお隣の奥さんが声をかけてきて、親に家に入れるよう交渉してくれたりすることがあったりもしました。
「そんなに言うことを聞かないなら出ていきなさい!」
という母の言葉に
「いいもん、おばあちゃんのうちに行くから!」
と弟が言い返していたのをよく覚えています。
常に八つ当たりされるような日々を過ごし、「テストで100点取ったらあれを買ってあげる」とか言われるので、弟とふたり、「なんかお金でごまかされている感じがするよね」と話していました。まだ小学校1年生や幼稚園生なのに。
毎日イライラをぶつけられていたら、子どもも不安になってしまうのは当たり前だったのかなと今は思います。


そして、次第に母や大人たちに何かを訊かれても、自分の欲しい物ややりたいことをきちんと伝えられない子どもになっていました。
例えば「大きくなったら何になりたいか、将来の夢を絵に描く」という宿題が出たとき、自分の頭の中には歌手になりたいという夢があるのに、画用紙を前に迷っていると、母が「スチュワーデスとかどうかな?」と助け舟のつもりで声をかけてきました。
言われたとおりに、スチュワーデスになりたいという絵を描いて提出しました。
他にも、バレンタインデーにクラスの誰かにチョコレートを渡そうとなったとき、私にはSくんという気になる男の子がいたんですが、母が「Kくんがいいよ」というので、母に従ってKくんにチョコレートをあげる、と言った風に、自分の考えている欲求をきちんと人に伝えられなくなりました。
欲しい物を欲しいということは、まるで自分にとっては罪悪か何かのように感じていました。
ともかく、母親に嫌われたくない。
小さな子供にとって母親や父親に嫌われることは、死を意味することだということは、父方の祖母の家での出来事でよく分かっていました。
だからともかく、母が自分のことを嫌いになったりしないように、いい子でいなければと思っていました。
それでも、あまりに辛く当たられるので、子供部屋の窓から商店街を見下ろし、「ここから飛び降りたら死ねるのかなあ」とか考えていました。
まだ6歳にならないのに。
子どもは死にたいと思ったりしないというのは、嘘なんですよね。
そして、愛されているかどうかも、敏感に感じ取っているものだなと振り返っても思います。


小学校では同じクラスのお友達がたくさんできました。
でも、家が近かったのもあって最初のうちは、親が紹介してくれたRちゃんと遊んでいました。
Rちゃんは3歳のときに両親が離婚して、両親ともに引き取ることを拒否したため、伯母であるクリーニング店のおばさんが引き取って育てていました。
その事実を、当たり前のように淡々と話していたのを覚えています。
子どもってそういうところがありますよね。
クリーニング店のおばさんは、とてもあたたかくやさしそうな、昭和のお母さんを絵に描いたようなイメージの人でした。
Rちゃんの家の隣の家にはMちゃんという1学年年上の女の子がいて、ちょっと裕福なおうちの子でした。
その子達と遊ぶと、必ずと言っていいほどいじめられました。
缶蹴りして鬼になるとそのまま放置して帰られたりとか日常茶飯事でした。
あるとき、いろいろ悪口を言われてうちのマンションの前に取り残されたとき、ちょうど母親が買い物から帰ってきて、さすがに様子がおかしいと思ったのでしょうね、「どうしたの?なにか言われたの?」と訊かれました。
でも答えられませんでした。
「なんでもないよ」とだけ言って部屋に戻りました。
たくさん友だちができてからはRちゃんたちと遊ぶことはなくなりました。



家族4人での生活が始まり、父がしっかりとした仕事に就くようになると、母は「Jちゃんのお家に行く」とは言わなくなり、常に家にいるようになりました。
いわゆる専業主婦ではあるものの、部屋の掃除が苦手だったらしく、部屋は常に散らかっていて汚かったのを覚えています。
まあ、小さい子どもがいる家はそんなものかもしれません。
週末になると父と母が二人で晩酌をしたりして、朝遅くまで寝ている二人をよそに、子どもはいつも早起きなので、起きてお腹が空いたと騒いでいると怒られたりしました。
居間には大きなステレオセットがあって、白鳥の湖を聴きながらホットケーキを食べました。
親なりの情操教育だったのだと思いますが、なんだか笑えますね。
ステレオセットのあった場所は、私がピアノを習い始めると、伯母が買ってくれたアップライトピアノに取って代わられ、毎日練習してもちっとも上達せず、近所の人はうるさかっただろうなあと思います。

でも、順風満帆な状況ばかりではありませんでした。
父は仕事についても2年ほどで大概職場でトラブルを起こして辞めるという癖があり、勝手に仕事を辞めてきて、それが元で母と大喧嘩、というのが定期的にありました。
そういう喧嘩のときは私達子どもを連れて祖母の住む実家へと行くのが定番で、いわゆる「実家に帰らせていただきます」をやることでその先のことを父に考えさせるのが常でした。
もちろん、子どもの都合なんて考えていませんから、子どもは距離はそれほどないとはいえ、祖母の住む実家から長い距離を歩いて通学することになります。
また、習い事にも思うように通えなくなったりして、子どもたちは不満でいっぱいになりました。
一度ピアノの発表会を目前に大喧嘩が起きてしまい、ピアノの練習が出来なくて困ると母に訴えると「そんなこといったってしょうがない」と逆ギレされるということもありました。
祖母はそれを見て、夜になって食事が終わってからお茶を飲み始めると、「だからあの男との結婚は反対したんだ。ろくなことがない」
とよく言っていたのを思い出します。
2年に1度は起きるので、子ども心に「親に振り回されるのはもううんざり」と思っていました。
そういう子ども時代を過ごした人ってどれくらいいるんだろうなあって思います。
あんまりそういうことを聞いたことがないし、わりと円満な家庭に育った子が周りは多かったから。
羨ましいとは思わなかったけど、思うようにならない自分の「普通の暮らし」を邪魔されるのが本当に嫌だったのを覚えています。

長いので続編に続きます。


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