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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 2

「別に、私は次の大王が如何の斯うのと口を出すつもりはありません。ただ、間人だけは駄目なのです。あの子だけは、大王にはさせません」

「しかし、それでは大后を推挙してきた我々の面目が立ちません」

 徳太は平伏して言った。

 お前たちの面目など知らぬと、宝皇女は言いたかった。

「間人以外の人間を立てれば良いではないですか?」

 が、そんな適当な人物がいようはずもない。

「しかし、政治的能力といい、人望といい、大后が最も相応しいと思うのですが……」

 その後も、数回に渡り宝皇女と徳太の会談が持たれたが、話し合いは平行線を辿った。

 このままでは中大兄が大王となり、飛鳥派が権力を握ってしまう ―― 難波派は、完全に行き詰ってしまった。

 そんななか、妙案を考え出したのが中臣鎌子である。

「宝様が、なぜ間人様を大王にしたくないのかは分かりませんが、中大兄を大王にとは仰ってはおられません。間人様は駄目だと仰っているのです。だったら、他の人間を大王に立てれば良いのではないでしょうか?」

「だから、そんな適任者がいれば、こんなに苦労はしておらぬのだ。我らが期待の星の有間様は、余りも若すぎるし」

「もう1人、適任者がいらっしゃいます」

「誰じゃ?」

「宝様ご本人です」

「宝様だと!」

「はい、宝様は元大王ですから、執政能力に問題はありません。それに、飛鳥派にも難波派にも属さない中立な立場です。問題ないと思いますが」

 鎌子のこの案に、徳太たちは度肝を抜かれた………………まさか、退位した大王を復権させようとは!

「二度も大王に就くなんて前例がないぞ」

「生前禅譲だって前例を破っているのです。この際、復祚であっても問題はないでしょう」

「宝様は、我々が大王の座から引き摺り下ろしたのだぞ。いまさらそれを……」

 徳太は両腕を組み、渋る。

「引き摺り下したのは軽様と大鳥大臣です。我々は、それに従ったまで」

「しかし、宝様が大王になれば宮は飛鳥に移るだろうし、宝様の次は息子にとなるだろう。そうなれば、難波王朝の目はない」

 それが難波派にとって最大の障害である。

「有間様がご成長するまでの間ことです。頃合いを見て、宝様には再度禅譲して頂けば良いのです」

「そんなことができるのか?」

「できる、できないの問題ではありません。やるのです。幸いどう言った訳か、宝様は息子の中大兄様のことを良く思っていらっしゃらないようです。宝様が、中大兄様を後継者に指名することはないでしょう。それに、宝様は飛鳥の地に都を建てるという、並々ならぬ情熱がおありのようですから、それを餌に有間様への禅譲を約束させれば良いのです。有間様が大王になれば、再び難波に宮を移せば良いだけのことです」

「なるほど!」

 難波派の群臣たちは、鎌子の案に感心した。

 そして肝心の宝皇女は、

「私が、大王にですって? 嫌です! 嫌です! 私は、二度と大王にはなりたくはありません!」

 と、蘇我氏の怨念を嫌って拒否したが、鎌子が飛鳥への都建設を容認する趣旨を述べると心が動かされた。

 ―― 諦めていた飛鳥の地に唐に勝る都を築くという夢、そして、あの人………………高向王と漢皇子が帰ってくるかも知れないという夢………………それが叶うかもしれない。

「それは……、真ですか?」

〝心〟が動いた………………と鎌子は思った。

「勿論でございます。有間様への禅譲を約束して頂けるのなら」

 と畳み掛けた。

 数分の沈黙の後、宝皇女は口を開いた。

「分かりました。私が次期大王として立ちましょう!」

 これに驚いたのが、中大兄を担ぐ飛鳥派であった。

 ―― まさが、こんな逆転劇が待っていようとは!

 今度は、彼らが焦る番であった。

 両派の折衝は続けられた。

 だが形勢は完全に逆転され、明らかに飛鳥派が不利になっていた。

 だからと言って、飛鳥派も黙って難波派の案を呑むほどお人好しではない。

 最終的には、宝皇女を大王に、中大兄をそのままの位でという案を難波派に呑ませたのである。

 難波派としては有間皇子を大兄にしたかったのだが、これを妥協して、飛鳥派と表向き合意することとしたのである。

 しかしこの捩れが、後に悲劇を生み出すこととなる。

 白雉5(654)年12月8日、軽大王を大坂磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に葬った宝皇女は、その日のうちに倭河邊行宮(やまとのかわべのかりみや)に移り、翌(655)年1月3日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で再び大八洲国(おおやしまのくに)の主となったのである。

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