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「天使のいのち」(子どもとお別れしてしまった母親に捧げる大人向け童話)

 お空の上に、音楽が大好きな天使が住んでいました。ある日、風に乗って雲の下の世界から、素敵な歌声が微かに聴こえてきました。
「やさしい歌だな…だれが歌っているんだろう。」
厚い雲に阻まれているせいか、残念ながら地上の世界を見ることはできませんでした。
 
 その日以来、天使は、その歌声が聴こえてくる度に、雲の下の世界を覗こうとしましたが、どんなにがんばっても見ることはできません。
 天使は神さまにお願いしました。
「神さま、ぼくはあの素敵な歌をもっと近くで聴きたいんです。どんな人が歌っているのかとても気になります。力を貸してください。」
天使の願いに神さまはこう答えました。
「おまえの命が生まれる準備ができれば、いずれ地上に降り立つことはできる。それまで焦らず、待ちなさい。」
神さまの返答に納得しなかった天使は再びお願いしました。
「神さま、いつかではなく、今すぐ、あの歌を歌っている人の元へ行きたいんです。どうかぼくを今すぐ、地上の世界に降ろしてください。」
真剣な様子の天使の話を聞いていた神さまは、少し悩んだ後、こう言いました。
「そんなに今すぐ地上の世界へ行きたいというなら、行かせてやることはできる。しかしさっきも言った通り、おまえの命はまだ生まれる準備が整っていない。あの歌を間近で聴いて満足できたら、すぐに雲の上の世界へ戻ってくると約束できるか?」
素敵な歌声を早く間近で聴きたいという気持ちしかない天使は、神さまが告げた条件にすぐ納得しました。
「ありがとうございます。誰が歌っているのか知りたいだけですし、近くではっきり聴けたらすぐにこの世界に戻ってくると約束します。なのでお願いします。」
「そうか…おまえがそういう気持ちなら、分かった。地上の世界へ降ろしてやろう。ただし、命が不完全なおまえは、今の姿のままでは地上に行くことができない。おまえの命を人間の胎内に宿してやるから、そこで歌声を聴きなさい。」
神さまは天使を雲の下の世界へ降ろすために、ある人間の胎内に天使の命を宿らせました。
 
 天使は間近から聴こえる、やさしい歌声で目を覚ましました。
「神さまのおかげで、近くで聴けるようになってうれしいな。でも、そっか…ぼくの命をだれかの胎内に宿すとか言ってたから、歌っている人の顔は見られなくて残念だな…。」
人間の胎内に宿った天使はようやく歌声を間近で聴けるようになりましたが、歌っている人の姿を確認することはできませんでした。
「それにしても、すごく近くから聴こえてくるな…。もしかしたらぼくは歌っている人の中に宿ったのかもしれない。」
天使は近くで響く、やさしい歌声にうっとりしているうちに、眠ってしまいました。
 
 それからどれくらい時間が経ったでしょうか。眠りから目覚めた天使は、神さまからそろそろ戻って来るように告げられましたが、もう少し歌声を聴いていたかった天使は、すぐには雲の上の世界に戻ろうとしませんでした。神さまとの約束を破って、地上の世界に居座り続けようと思い始めていました。素敵な歌声を聴かせてくれる人から離れたくなくなったのです。
 
 命を宿したことに気づいた人間は、困り始めていました。シンガーになる夢を叶えるために毎日歌の練習をがんばっていたものですから、予期しない妊娠に戸惑っていたのです。
「今…おなかの子を産んだら、シンガーになるのが遅くなってしまう。育児に追われて、シンガーどころじゃなくなってしまうかもしれない。だから…この子には申し訳ないけど、夢を叶えるために、この子のことは早く手放さなきゃ。」
素敵な歌を歌ってくれる人の胎内に宿り、神さまの言いつけを破って、その人の中に居座り続けていた天使は、その人に邪魔者扱いされ始めました。
 
 天使の命を胎内に宿した人間は、病院でその命を取り除いてもらう手術を受けることにしました。手術当日の朝、その人はおなかの子に向かって歌っていました。夢を叶えるためには、おなかの子は邪魔なはずなのに、お別れすると思うとなぜかとても寂しくて、涙が溢れてきました。いつもの素敵な歌声は震えていて、やさしいというよりとても悲しそうな歌声に聴こえました。天使は悲しそうな歌声に心が、ぎゅっとしめつけられました。
 
 手術が始まると、天使は神さまではなく人間の手により、強制的に、お空の雲の上の世界へ戻されてしまいました。
 
 「あーぁ、ぼく…ずっとあの人のおなかの中にいて、一番近くでずっとあの人の歌声を聴いていたかったのに、とうとう雲の上の世界に戻されちゃった。」
また退屈な元の暮らしに戻った天使は、雲の上でぼんやりしていました。またあの人の歌声が聴こえるかもしれないと、耳をすましていましたが、戻ってきて以来、一度もあの人の歌声は聴こえなくなっていました。そして最後に聴いた、あの寂しそうな歌声がとても気がかりでした。
「神さま、ぼくに歌を聴かせてくれて、ぼくの命を宿してくれた人は、シンガーになる夢を叶えるために、ぼくを手放すと言っていました。ぼくを手放したのだから、あの人はシンガーになれましたよね?今もちゃんと歌い続けていますよね?あの人の歌声が聴こえなくなったので、とても心配で…。」
不安を覚えた天使は神さまに尋ねました。
「彼女は自分の夢を叶えるためには、おまえの命なんていらないと、邪険にしたが、しかし、彼女はおまえとお別れしてから気持ちが変わったらしい。シンガーなんてなれなくていいから、おまえを産めば良かったと後悔している。だから彼女は歌わなくなったし、歌えなくなったんだ。」
神さまから歌を聴かせてくれた人の様子を聞かされた天使は驚きました。
「えっ?そんなの、嘘ですよね。だってあの人はぼくを産むことより何より、シンガーになることが夢だとはっきり言っていたんです。邪魔者のぼくさえいなくなれば、あの人は夢を叶えられるはずなのに…。どうして…。あの人の側にいられなくなっても、また雲の上であの人の歌声を聴けるはずと信じていたのに…。」
「命を胎内に宿すと、母性が芽生えて、夢より何より子どもの命を優先したくなる人間もいるんだよ。彼女は気づくのが少しだけ遅かったんだ。でもそもそも、おまえの命は不完全だから、あのまま彼女の胎内に居座り続けたところで、おまえは無事に生まれることはできなかっただろう。わしとの約束を破り、すぐにあの人の元から帰って来なかったおまえが悪いんだよ。おまえが、歌だけ聴いてすぐに戻ってきていれば、彼女は悲しむことはなかったんだ。」
神さまからそんな話を聞かされた天使はひどく後悔しました。
「そっか…ぼくがあの時、すぐに雲の上の世界に戻れば、あの人を悲しませることはなかったんですね。ぼくがあの人から歌う喜びを奪ってしまったんだ…。何度も歌を聴かせてくれたあの人はぼくに幸せを与えてくれたというのに…。ぼくが大好きな歌声を聴かせてくれた、大好きなあの人を、ぼくが傷つけてしまったんだ…。神さま、もう一度だけ、あの人の元へ行かせてもらえませんか?ちゃんと謝りたいんです。」
「約束を破り、地上の世界に居座り続けたおまえは、本来なら二度と地上へ降りる資格はない。しかしどうしても彼女に詫びたいというのなら、行かせてやることはできる。だが、彼女と会って、雲の上の世界に戻った後、おまえの耳は聴こえなくなる。聴力を失ってまで、彼女に会いたいと思うか?」
もう一度、地上に降りた場合、耳が聴こえなくなると神さまから忠告された天使は少しだけ迷いましたが、それでもあの人に会いたい気持ちが勝りました。
「分かりました。神さま…ぼくは今度雲の上の世界に戻ってきた時、耳が聴こえなくなっていても構いません。それでもいいので、どうかもう一度だけ、あの人に会わせてください。」
「そうか、分かった。おまえの意志がそれほど固いなら、もう一度だけ地上の世界に降ろしてやろう。」
天使は神さまの力で再び、雲の下の世界へ降り立ちました。
 
 気づいた時、天使はあの人の目の前にいました。姿を見たことはありませんでしたが、なぜか一目で歌声を聴かせてくれたあの人だと分かりました。うつろな瞳の彼女は塞ぎ込んでいました。大好きなその人をこんな風にしてしまったのは、自分だと思うと、天使は心苦しくなりました。
「あの時は、ごめんなさい。ぼく…あなたの歌声が聴きたくて、神さまにお願いして、あなたのおなかに命を宿してもらったんだ。まだ、ぼくの命は不完全だったから、本当はすぐに雲の上の世界に戻らなきゃいけなかったの。どんなにがんばっても生まれられない運命だったんだ。だから、その…あなたのせいじゃないから。」
どうやら天使の姿が見えていない様子のその人は、ふいに聞こえてきた声に戸惑っていました。
「えっ…?ゆきと…雪音なの?私に会いに来てくれたの?」
その人は天使のことを「雪音」と名付けていました。
「名前まで考えてくれてありがとう。そうだよ、ゆきとだよ。この世界には留まれない約束で、歌声を聴くために、胎内に宿ったの。ぼくのせいで、悲しい思いをさせてごめんね。どうかシンガーになる夢を諦めないで。また歌ってほしい。あの素敵な歌声は、雲の上まで届くんだよ。やさしい歌声をぼくにまた聴かせて、お母さん…。」
その人にぎゅっと抱きつき、その人の温もりを感じながら天使は言いました。
「雪音…こんな私のそばにいてくれてありがとう。今、あなたがおなかの中にいた時みたいに、体がぽかぽかしてきたわ。雪音の温もりを感じるわ…。もうシンガーになりたいとは思えないけれど、あなたのお母さんになりたかったとは心から思う。雪音が私の歌を聴きたいと言ってくれるなら、誰のためでもなく、あなたのために歌を歌うわ。」
そう言うと、その人は天使のそばで歌い始めました。前よりやさしい歌声でした。
「お母さん…また歌ってくれてありがとう。ぼくのためじゃなくて、みんなのために歌い続けて。お母さんの歌声はきっとみんなを幸せにできるから。ぼくはお母さんの素敵でやさしい歌声と、それからお母さんのことが大好きだよ。」
懐かしい歌声を聴けた天使は、涙を零しながらその人の頬に口づけすると、自分の意志で雲の上の世界へ戻りました。
 
 それから十年後…。奏(かなで)という名前のシンガーが身ごもりました。生まれた赤ちゃんは聴覚に異常があり、耳が聴こえませんでしたが、彼女は「雪音」と名付けたその子に、自分の歌を子守歌のように、やさしく聴かせ続けました。

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