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翻訳者

 今回は「翻訳者」について語りたい。まずは、よく話すエピソードから。

 数年前、当時よくつるんでいた友人が、「あっそういえば、最近シェイクスピアにハマってる」と話してくれたことがある。
 その段階で、大方の有名作は読んでおり、一番良かったのは……と楽しそうに教えてくれた。私はそれを面白く聞いていたのだが、何の意図もなく「誰の翻訳で読んだの?」と質問してしまった。
 してしまった、と書いたのは、その後数秒間、沈黙が流れたからだ。「ごめん、あんまそこ気にしてなかった」と困惑する友人を見て、やっちまった……と後悔したが、時すでに遅し。
 新潮文庫で読んだとのことだったので、翻訳したのは福田恆存である。「誰が翻訳したのかって、あまり気にならないものなんだな」と心の内で思ったりした。

 このエピソードの重要なポイントは、翻訳者のパーソナルな部分には関心が向けられていなくても、翻訳文は確実に読者を魅了していたという点だ。私の友人は、翻訳文に慣れ親しめたからこそ、シェイクスピア作品を読み進めることができた。

「翻訳文学の読者の多くは、訳者の知名度で本を判断したりはしない。その一方で、作者の名前を知る権利は決して手放さない。」
アンナ・アスラニアン著、小川浩一訳『生と死を分ける翻訳』草思社、P213)

 ジャーナリストで翻訳も手がける、アンナ・アスラニアンは、翻訳に関する自著の中で上記のように語る。この指摘は、短文でありながら示唆に富んでいる。
 読者の多くは、誰が執筆したか、に注目して読む本を選ぶ。書店の棚自体が、著者の名前順に並んでいるから、著者の存在を意識せずに本を選ぶことは難しい。
 一方、翻訳者の場合、特に意識されることがないまま、彼・彼女が手がけた翻訳書が読まれる可能性がある。著者のように、棚に名前順に並べられることは少ない(私はもっとあっていいと思う)。

「目の前にある本が翻訳であることを知らなければ、最初から自国語で書かれた文章にしか見えないかもしれないが、そうでなければ、ページの表面に翻訳者の指紋が透けて見えるのはごく当然である。翻訳者がいかなる策を弄しようと、翻訳で使われている言葉は、結局、翻訳者自身の言葉なのだと見抜くのはたやすい。」
アンナ・アスラニアン著、小川浩一訳『生と死を分ける翻訳』草思社、P210〜211)

 著者ほどではないにしても、「この人が訳しているなら、読む」といった感じで、翻訳者が本を手に取る判断材料になることは、当然ある。
 パッと具体例として名前が浮かぶのは、小説家の村上春樹だろうか。彼の著作を愛読する読者は、彼の文体と翻訳を通して、他の文学者の作品に触れることができる。
 翻訳者はいつでも無色透明というわけではない。注目して追っていけば、別の視点でもって読書を楽しむことができるようになる。



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