静寂
私にとって喫茶店は、トーストと珈琲を口に含む場所であると同時に、情報収集の場でもある。
店内の客の会話から、聞き慣れないワードを抽出して、メモし、後日詳細を調べる。すると思わぬ収穫があったりするから、やめられない。
例えば、ある老夫婦の会話から、一人のピアニストの名前を抽出し、彼の発表した音源や著作に実際触れてみる。自分の脳内の引き出しに「ピアニスト」の項目が加わることは、それだけで実りのあるものだ。
とてもお行儀の悪いことをしているのは、重々承知している。重々承知しているが、やめられない。
*
先月末にも、喫茶店で収穫があった。
自分と同年代か、少し年上の男性二人組が、飲み物を啜りながら会話をしている。側からは文脈の摑めないやりとりが多い中、お気に入りの絵について話す場面があった。
「エドワード・ホッパーの絵の世界に入りたい」
エドワード・ホッパー……? 聞きなれない画家名であったから、当然絵の方も浮かんでこない。会話の続きを聞いても、「都会の静けさ」「哀愁」といった抽象的な言葉が並び、ヒントになるものは得られなかった。
さっさとスマホで検索してしまえば、済む話ではある。だが、それは何だか無粋な気がして、後日ゆっくり調べてみることに決めた。
*
画家名に聞き覚えがなかったので、当然絵の方も未見であろうと思っていたら、そんなことはない。エドワード・ホッパーの画集や研究書に目を通すと、何点か見覚えのある絵が確認できた。
その中には、確かに「絵の世界に入りたい」という気持ちを抱いても不思議ではない、魅力的な作品がある。《Nighthawks》(ナイトホークス)と題された絵が、その一つ。
引いたのは、文化人類学者・青木保による《Nighthawks》の解説文(一部)。絵画内の情景が、細かく描写されている。
「都会の静けさ」「哀愁」ーー喫茶店で男性が口にしていた言葉が頭に浮かんでくる。おそらく男性が想定していた絵というのは、この《Nighthawks》に違いない。
《Nighthawks》で描かれているのは、ニューヨークのダウンタウンの一角にある深夜営業のカフェである。男性は喫茶店内で、訪れたいカフェの話をしていたわけだ。
洒落ている。
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