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静寂

 私にとって喫茶店は、トーストと珈琲を口に含む場所であると同時に、情報収集の場でもある。
 店内の客の会話から、聞き慣れないワードを抽出して、メモし、後日詳細を調べる。すると思わぬ収穫があったりするから、やめられない。
 例えば、ある老夫婦の会話から、一人のピアニストの名前を抽出し、彼の発表した音源や著作に実際触れてみる。自分の脳内の引き出しに「ピアニスト」の項目が加わることは、それだけで実りのあるものだ。

 とてもお行儀の悪いことをしているのは、重々承知している。重々承知しているが、やめられない。

 先月末にも、喫茶店で収穫があった。
 自分と同年代か、少し年上の男性二人組が、飲み物を啜りながら会話をしている。側からは文脈の摑めないやりとりが多い中、お気に入りの絵について話す場面があった。

「エドワード・ホッパーの絵の世界に入りたい」

 エドワード・ホッパー……? 聞きなれない画家名であったから、当然絵の方も浮かんでこない。会話の続きを聞いても、「都会の静けさ」「哀愁」といった抽象的な言葉が並び、ヒントになるものは得られなかった。
 さっさとスマホで検索してしまえば、済む話ではある。だが、それは何だか無粋な気がして、後日ゆっくり調べてみることに決めた。

 画家名に聞き覚えがなかったので、当然絵の方も未見であろうと思っていたら、そんなことはない。エドワード・ホッパーの画集や研究書に目を通すと、何点か見覚えのある絵が確認できた。
 その中には、確かに「絵の世界に入りたい」という気持ちを抱いても不思議ではない、魅力的な作品がある。《Nighthawks》(ナイトホークス)と題された絵が、その一つ。

「人通りも絶え、店の明かりも消えて、一軒の深夜営業のカフェだけが明るい光を放ち、中にはきちんとした身なりの男女とコックがいる。大都会だが、この時間になると昼の賑わいも人通りもなく、静かなどこか沈んだ時間が流れるばかりだ。ここに登場する人たちは寡黙で、夜も更けてたとえ連れがいようが一人の時間を過ごしているように見える。しかし、その表情には特に疲れも深刻な悩みもいやな気持ちも浮かんではいない。どちらかというと、静かに夜の時間をすごしている様子が見られるのである。それに店の内部の奥の壁の黄色がかったベージュの色が映えて外の街路にも明るく放射している。」
青木保『エドワード・ホッパー 静寂と距離』青土社、P28)

 引いたのは、文化人類学者・青木保による《Nighthawks》の解説文(一部)。絵画内の情景が、細かく描写されている。
 「都会の静けさ」「哀愁」ーー喫茶店で男性が口にしていた言葉が頭に浮かんでくる。おそらく男性が想定していた絵というのは、この《Nighthawks》に違いない。
 《Nighthawks》で描かれているのは、ニューヨークのダウンタウンの一角にある深夜営業のカフェである。男性は喫茶店内で、訪れたいカフェの話をしていたわけだ。
 洒落ている。



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