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相手を大事に思うことは、相手のことばを大事にすること。

方言を使って恥ずかしかったことを語ってください、という投稿

「方言を使って恥ずかしかった経験を語ってください」とTwitterに書いたテレビ局? が言語界隈ですこし炎上していた。方言を恥ずかしいというステレオタイプ的な感情と結び付けてしまうのはよくない、過去に日本政府が方言を軽視して使用禁止令を出した歴史を知らないのか、方言を使って恥ずかしいと思うのは前時代的なものでそれを受け継ごうとしているのか、方言は恥ずかしいものではなくむしろ誇るべきものだろう、恥ずかしいと言わせてしまう社会には確実に問題がある、そもそも言語と方言の区別だって曖昧だし方言が言語の下にあるわけではないだろう、といった意見だった。

カタルーニャ語を学ぶ意味はないからスペイン語を学んだほうがいい、という意見

カタルーニャ語を学びたいというと、「カタルーニャ語を話せるひとはスペイン語も話せるのだから、スペイン語を学んだほうがより多くのひとと話せるようになるのではないか」と南米在住のスペイン語話者に言われたことがある。「より多くのひとと話すためにことばはあるのだから、話者数が少ないうえに、カタルーニャ語しか話せないひとがいないような言葉を学んだって意味はないだろう」と彼は言っていた。

方言を恥ずかしいと思っていることは、自分の原点を否定することにつながる

方言を恥ずかしいと思っているということは、多かれ少なかれ、その地元を恥ずかしいと思っているということにつながる。「私のとこなんてなんもありませんからねえ」と言っているひとたちは、それが単なる謙遜でない限り、その地元の良いところも見逃している。たとえば、なんもないからこそ夜の星空が綺麗だとか、なんもないからこそ空気が美味しいとか、あるいは海に近くて刺身が美味しいとか、山に近くて夜は自然の声で安心できるとか、同級生とすぐ仲良くなれて一生もんのお付き合いになるとか、そういったことは、都会のひとからは見えにくい。都会には娯楽もいろいろな機会も美味しいお店もたくさんある。ただ、だからといって田舎が良くない場所であるように言ってしまうのは、都会人の驕りだろう。「自分の方言は嫌いだけど、地元はすごく好き」と言っているひとを、少なくとも私はまだ目にしていない。

「役に立たない」言語を学ぶ意義

そもそも、語学(方言も含む)を「役に立たない」とかといった理由で「学ばない」のは、もったいないことだと思う。日本語やすでに習得している英語だけで生活が完結しているため新しい言葉を学ぶ必要性がない環境にいるとか、学びたくてもお金や時間や体力がなくて学べないとか、学び方を知らなかったり自分に合った学び方をまだ知らなかったりするとか、あるいはただ単に面倒だからとか、そういった理由ではなく、「どうせ役に立たない言語を学ぶくらいなら、ほかのことを学んだほうがいい」と誰かに思わせてしまう社会は、なにかを間違えている気がする。言語は「役立つ」「役立たない」という次元で語れるものではないからだ。そして、いわゆる「マイナー言語」あるいは「役に立たない言語」を学ぶと、そこにしかたどりつけない社会があるといった魅力がある。

言語と文化は密接に結びついている

たとえば、日本語に「いただきます」という言葉があって、英語にはぴったりはまるものはない。

たとえば、英語に「神様のご加護がありますように(God bless you)」という言葉があるが、日本語にそれにぴったりはまる言葉はない。私はクリスチャンなので抵抗はないが、いきなり「神様」なんて言われても「はあ」としか思えないひともいるだろう。

そういったことから、日本語は食事をとる前に感謝することを大切にして、英語は神様と人間とのつながりを大切にしているといえる。もちろん、この説の反論はできるだろうし、そんなに簡単なものでもないのだが。もちろん、だからといって日本人が神様を、英語圏のひとが食事の前の感謝を大切に思っていないというわけではない。あくまでも、そういう側面がその社会に強いか弱いかといった違いだけだ。

そういったように、言語と文化は密接に結びついている。それを言語の方面からアプローチするのが広義の言語学、文化のほうからアプローチするのが民俗学、文化人類学、社会学といった方面だ。

カタルーニャ語を学ぶと、カタルーニャのひとたちをより理解することができる。日本語を学ぶと、日本人がわかってくる。

自分の思いをGoogle翻訳で語りたくないから、自分の言葉でなにか言えるように、言語を学ぶ

私はスポーツ選手が、自分の言葉ではなく通訳にすべてを丸投げしているのがあまり好きではない。チームメイトとは英語で話しているらしいが、記者会見で日本語だけで話すのはあまりにもチームや記者に失礼だと思っている。カットされているだけかもしれないが、最初にHello、最後にThank youくらい言えるだろう。自分の言いたいことを間違いなく伝えるために通訳を雇っているらしいが、せめて最初と最後の簡単な挨拶は英語で言えるだろう。現に彼らはチームでは通訳を介さず話しているらしいし。少なくとも記者に対しては、「私はあなたと最低限のビジネス的なお付き合いしかしたくありません」と間接的に言っているように私には聞こえる。

たとえば、外国人がコンビニを訪れて、英語あるいはほかの国の言葉で語るより、「ありがとう」だけでもいいから日本語で言われると、「このひとって素敵だな」と思う。Google翻訳で日本語を出し、なにかを伝えようとしている行為は、間接的に「私はあなたのことをもっと知りたいし、あなたの背景にあるものもなるべく理解できるよう努めています」と伝えていることだ。

この意見には反論があることもわかっているが、私はそう思う。だから、私も、たとえあいさつ程度でも、目の前にいるひととその国の言葉で話せるように語学学習を頑張っている。たいがいみんな喜んでくれる。たとえその先の難しい会話が自動翻訳であっても、「私達の言葉を使って、私達の文化に関心を持ってくれてありがとう」と直接言われたことは何度もある。自動翻訳だと知っても、彼らはすごく落ち込んだりしない。むしろ、英語で話されると、「私英語あんまりうまくないから」と言われるケースのほうが多い。

語学留学以外の海外への滞在は、語学力とその社会にとけこもうとする意志が必要

極論を言ってしまうと、配偶者などにすべてを任せて、語学力がほとんどないのに海外移住するというのは、その「あなたが語学ができないぶん」を相手、あるいはほかの誰か、あるいは社会に、直接的にも間接的にも、丸投げすることなっているということを思う。たとえば、語学力がないのにバイトしたら、客があなたのためにGoogle翻訳を使うという手間を与える。語学力がないのに語学学校以外の学校に通えば、教員はあなたのために特別対応をしないといけなくなる。

配偶者はあなたの専属通訳ではない

配偶者はあなたの専属通訳ではない。通訳は時給1000円なりお金を貰ってやるべきで、無償労働は誰にとってもよくない。みんなが低い賃金で働き、軽視されると、通訳という業界全体に悪影響を与えることさえある。少なくとも、私は誰かにただ働きされるようなひとになりたくないので、もし外国人と結婚して日本に住むとして、最低限の語学力(日本語)ができないひととは結婚したくないと思う。そのときに私が重視するのは、現在の語学力ではなく、語学を学ぼうとする意志、つまりは日本社会にとけこもうとする意志があるかどうかといった「未来」の側面だ。

海外生活に必要なのは、相手の国にとけこもうとする意志

語学力があればいいが、なければ、せめて「私はあなたの言語を学び、あなたについてもっと理解したいです」という意志を持っていることが必要になる。そうしないと、長い目で見たときに、海外生活がうまく行かず、配偶者と別れることになって(語学力というかはその他の理由で軋轢を生んで)、異国でひとりぼっち、言葉も文化もなんにもわからない、困った! ということになりかねない。

ただでさえストレスフルな海外生活をよりよく送るためには

海外生活はストレスフルなものだ。だから、そのストレスの要因がひとつでも減れば、それをつぶしたほうがいい。語学ができるだけで、ストレスの3割は減らせる。逆に語学ができないと、ストレスは約4割増しになる。

相手を大事に思うことは、相手のことばを大事にすること

国際恋愛をうまく行かせるためには、好きになったひとの言葉を学ぶことだ。自然と会話が増え、仲良くなれる。「この言葉の意味を教えて」といえば、たいがいのひとは優しく教えてくれる、そうやって仲良くなると、次第に言葉のこと、文化のこと、そしてそのひと自身のことがわかってくる。

目の前のひとを大事にすること

国際恋愛に限らず、ビジネスや留学でも、結局目の前のひとを大事にできないと誰も大事にはできない。隣人を愛さないで遠くのひとだけを愛するという愛のかたちは歪んでいることが多い。

その目の前のひとを大事にすること、恋愛という意味に限らず愛することのためには、やはり最低限でも、語学を学ぶ必要がある。そして、その背景にある歴史や文化や伝統を、ことばを通して学ぶこと。そして「学びたい」「知りたい」という意志があることが大事になってくる。

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