無料で語学学習ができるDuolingoを100日続けてみた結果、世界の片隅が世界の中心になった
旅行中も語学学習
私はこの100日の間、たくさん旅行に行った。宿泊を伴う旅行もあった。それでも、携帯電話のインターネット回線やホテルのWi-Fiを使って、旅先からもDuolingoをした。
勉強した言語
100日の間ですこしでも手を出したのは、
フィンランド語、
チェコ語、
ウクライナ語、
ポーランド語、
オランダ語、
ドイツ語、
フランス語、
スペイン語、
イタリア語などだ。
ポーランド語が断トツで難しかった
まず単語が長い。
次に、発音がほんとうに難しい。
そして、ローマ字読みや英語読みとも違う独自の発音体系を持っている。
グジェゴシュ・ブシェンチシキエヴィチさん
このことをウクライナ人のお友達に話すと、この動画を教えてくれた。
Grzegorz Brzęczyszczykiewiczさん(Google翻訳によると、カタカナ表記はグジェゴシュ・ブシェンチシキエヴィチさん)という名前のポーランド人が、自分の名前をナチスドイツの係員? に紹介するというだけの1分程度の動画なのだが、とにかくこれが面白い。
この動画はまもなく300万再生に届く勢いだ。
早口言葉にしか聞こえないこの名前だが、この動画のコメント欄には「ポーランドにはポーランド語という武器がある(大意。The Polish had one secret weapon, their language!)」といったコメントがあった。
あるいはこんなものもあった。「アメリカの入試がいちばん難しいと思っている生徒さんがいるけど、ポーランドで「この名前のタグを持って」といわれるのだって難しい(大意。Students: “SAT and ACT is one of the hardest test in the world!” Poland: “Hold my name tag.”)」といったものだ。
スラブ語はキリル文字で書くべきだという主張
なお、これをウクライナ語のキリル文字表記で書くと、いかにシンプルになるかがわかる。
Гжегож Бженчищикевич
読める、読めるぞ…。
やはりスラブの言葉はキリル文字で書いたほうが良い。ポーランド語が難しいのはラテン文字を使っているからだと思う。と、そのお友達は言っていた。
キリル文字を読むのは案外簡単
2023年の目標として、キリル文字を読めるようになりたいというものがあった。それもDuolingoがかなえてくれた。
全部ではないが、だいたい読めて発音できるようになってきた。
推しの言葉を理解できる喜び
キリル文字が読めると、私の大好きなウクルポシュタ(ウクライナの国営の郵便局)のInstagramの投稿もちょっとはわかるようになってくる。最高だ。推しの言っていることを理解できるって、最高だ。翻訳機を使わなくても、わかる単語がすこしでもあるだけで、推しと同じ空気を共有している喜びがたまらない。
戦争が世界の「片隅」で起きている時代に、語学をやるということ
さっさと戦争が終わって、ウクライナが勝利したら、その瞬間にキーウ行きの航空券をとってウクルポシュタを見に行くと決めている。もう泊まるホテルだって決めているんだ。こんな意味のない殺し合いはいい加減にもうやめてほしい。世界の片隅でひとがひとを殺しあっているという、このことがひどく悲しい。
みんな語学をやろうよ。そうしたら、世界の対立が見えてくるから。
ロシアがウクライナ語を奪い、ロシア語を国民に話せるようにしたことの悲しみが、見えてくるから。
自分のことばを奪われたウクライナのひとの悲しみと怒りが、見えてくるから。
そしてその対立の陰に生きている人間の魂の叫びが、聞こえるようになる。
こんな戦争を推し進め、自国の若者をたくさん最前線に送って、民主化や平和といったことを叫ぼうとしたひとを殺し、弾圧し、ひたすら独裁者に従わせる、こんな国はもう嫌だ。
そうロシアの青年が言っているのを耳にした。
世界の片隅が、世界の中心になる
そういったことを、ほんのすこしのウクライナ語の知識から類推しながら、彼のメッセージのなかに1つでもわかる言葉があると、その青年はもはや「世界の片隅」にはいない。
戦場で殺されたひとたちも、「世界の片隅」にはいない。彼らは私の隣で生き、私の隣で死んでいったような気がする。
そうやって、世界はすこしずつ丸く優しくなっていくのだろう。「他人事」として終わらせてしまうことは、ほんとうに冷たくてむごいことだから。
私はたまたまヨーロッパが好きで、ヨーロッパの言葉だけをDuolingoでやっていたけど、たとえばアラビア語やヘブライ語を学べば、イスラエルとハマスとガザ地区の問題が、自分のこととして目の前に降りてくる。そして、私はそういった言語を勉強していなくても、既にヨーロッパの言語を勉強していることで、そういったことも容易に想像できるようになる。
世界は、たくさんの言葉があるから美しい
さあ、戦争の話はここまでだ。
世界はなぜ美しいのだろうと考えるときに、それはたくさんのことばがあるからだと思う。
バベルの塔の話を思い出すが、世界がたったひとつのことばになってしまったら、それはもはや美しい世界ではなくなる。
バベルの塔(旧約聖書/創世記)の引用
すこし長いが、聖書を引用する。
創世記11章(新共同訳)
1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
ことばが同じになるということは、世界がサハラ砂漠化するということ
ただ、広大な砂漠と似たような景色と似たような性格や顔のひとと似たような料理が、世界のどこに行っても食べられるようになるような感覚だ。
たとえば、イタリアを旅しても、そこには美味しい寿司があって、日本と似たような景色が並んでいたらどうだろうか。
モルディブに行っても、美しい海以外は日本と同じだったらどうだろうか。
エジプトに行っても、異国情緒を感じることなく、近代的なビルばかりの殺風景な街だったらどうだろうか。
世界をすべて英語、あるいはほかの言語で統一するというような動きは、そういった殺風景で味気ない世界を作ってしまう。
私がいちばん異国情緒を感じるとき
それは、全く違う言葉をきいたときだ。
聞き取れないのだが、なんだろう、からだがいつも元気になる。
ああ、生きているなあ。
そう感じる。
たとえば、日本国内を走る電車に、外国語を話すひとたちが乗ってきたとき。
観光地で列に並んでいるときに、前のひとが外国人だったとき。
学校の留学生を地元で案内しているとき。
そういったときに、生きているなあ、としみじみと感じる。
新しい言葉は、そのまま、新しい刺激だ。
刺激がない人生は、ただの荒野を歩く貧しい旅人と同じだ。
新しい言葉があるということは、世界がまだまだ探索されていないということだ。
世界は広い。知らない言葉がある限り。
世界は広い。たとえ地球のあらゆる場所まで3日以内で行けるようになったとしても、どこでもドアが発明されたとしても、世界は広い。新しい言葉が、ことわざが、汚い言葉(ここでは英語でいうFワードのような、イタリア語でいうパロラッチャのようなもの)が、方言が、知らない単語がある限り。
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