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文明の憂鬱 本多裕樹による

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 人から嫌われることもあるし、恨まれることもある。そういう生き方をしてきたからかもしれない。人に嫌われたり恨まれても特に変わることはない。ただ、自分の勤めをしっかりやっていればいい。身持ちも崩すのが一番いけない。身持ちを崩さないように読書はとても大事だ。精神修養であり、薬みたいなものです。愚かであってはこの世では生きていけないのが現実なところでいくらか賢くないと生きていけない。読書や精神修養はこの世でまともに生きていくための処方箋であります。荒れた生活をしていたり、酒に溺れていたり、感情をあらわにしてもいけない。怒り狂っては暴者となり人は離れていき運も失うだろう。そうして尊敬も尊厳すら崩壊していく。

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 努力もせず、読書もしないと最悪な人間になっていく。

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 結局、教養は自分を守るための処世術である。

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 人まかせの人生は自分で責任を取らなくていいし、何か失敗すれば誰かのせいにできる。誰かに依存した生き方は自分の大切な権利を失い奪われ自主性すら失われていく。そして、自分では責任を取らなくていいので、いくらでも人のせいにできる。結局、人間の尊厳を失い、卑怯で最低な人間になっていく。しかし、それさえも人のせいにできてしまう。

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 誰もが弱い、努力すらできない。正しくも生きられない。義人になれないし、君子になれない。あるがままに生きればいい。社会の規範や世の常識や、会社の理論に入らず、礼を捨てて、自然に生きていい。本来、人間は自然的存在であった。文明や古代から積み上げてきた知恵の構造がもたらす世界価値に縛られると人はその世界で生きるのは難しいものである。一度、文明を捨てて自然存在の人間として、自由人的な生活をすると、無理もしなくていい。競争や受験はしなくていい。無理して働いて、文明の奴隷にならない生き方もある。しかし、ほとんどの人が競争や受験、入社試験の中に生きて自然的生活を捨てて文明の中に入り、社会貢献して、社会参加していく。流れに流されていく。自分のユートピアを作れるのはなかなか難しくもあるのが現実である。あなたは自由の精神を悟ることは可能であろうか。

         
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 詩人は現実や世の汚れに染まらないらしいが、私はかなり汚れている。汚れと悪意に満ちている。ひねくれた精神を抱いている。そして、地獄も経験している。決して夢を語れるものでない。純粋でもないのだ。策略に満ちていて人を傷つけてきたし、暴言もかなり吐いてきたし、両親を罵倒したこともある不孝者なのである。罪の存在であり、罪人をそのままあらました人間なので、目つきも鋭く女に対して親切にしない。暴君そのものである。その暴君であっても生きてまともに生活しているのだから、そんなダメ男でも生きているのだから、大丈夫、あなたは胸をはって生きていいのです。

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 僕は生き方を知らなかった。まだ、中学生からその精神は成長していないのだろうか。いくらか成長しているかもしれない。小学生レベルかもしれないが、かと言って小学生にも中学生にもなりたくないし、戻りたくない。学校というのが決定的に合わない。高校に進学したことはあるが、まともに勉強しなかった。お情けで卒業はできたが、学問は独学の方が得意だった。学校に行っていたのはただ社会の部品になるための訓練所みたいなところであったことを後年になって覚える感じである。学問はほとんど独学であるし、学校の授業についていけなかったからのことである。今になって、何か得るものがあったかというと、自分の足で美術の世界を一歩一歩進むくらい。しかし、それも目立った結果は出せていない。何を目指すかだが、たぶん、盲目的に前を進んでいるだけかも知れないと思う。生きることしか考えていないことをエネルギーにしている。細かいことはあまり考えていない。ただ、前へ先へ生きるだけ、まるで戦地にある兵隊のように自分の生を生きているのだろう。生命の炸裂の中、火花散らして日々生きているのが現状です。        


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