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「芸術の書 断片」 修養と制作 本多裕樹

10、感性を磨くこと


 感性を磨くことという事でなにが大切か、それは他人の心の痛みがわかること、他人の痛みがわかるためには、自分の心の痛みがわかること、感性は心の心情であります。心の感動や不幸や幸福がわかれば、それだけ経験をひろげる事ができます。自分のことをあまり考えず、相手を思いやる事で、自分の切ない痛み、悲しみもわかってくるのです。感性を人間の心をもって理解するなら、生命に対する痛みもわかってくる。むやみな殺生もしなくなるでしょう。人を傷つけ、自分も傷つく。それが感性の基本のように思います。その悲しみの自分がわかったときに、周囲の人を愛してみよう。周囲の人を愛する事によって切なる自分というものも愛に変わってくる。愛は他人を生かし、許して行くでしょう。そして、相手の良かれと思って、与えていくのであります。与えていく中で、傷つくこともありましょう。大事な愛という宝をもってきたのに傷つけられることもある。相手のことを愛するがあまり傷つくことがあります。感性を研ぎ澄ますには、愛に生きたときに磨かれていくのであります。愛は感性を生み出して、感性は愛を作って行きます。芸術家にとって愛は大事であり、感性は作品の可能性を光らせていくのであります。感性は光を感受して、神の世界を感受していきます。神は愛なる存在であります。愛を理解する者は光を理解して、愛を理解する者は、神を感じていきます。切なる愛の中に芸術家としての感性が光って来るという事です。それが、感性を磨くことです。





11、制作の中に自由があり、生活も充実する


 この制作の中に自由とは、それの連続性として生活も充実することについて語ってみようと思います。制作、演奏、詩作には、自分の魂の開放であることが言えます。自分の魂を表現し、開放して行く中に自由があります。精神が開放されると、あらゆる光りを感受しそれを表現する。表現をしていくと、天上の光りが燦々と降りてきて、さらに表現をしていきます。自分にもし精神にしこりや曇りがある場合、それも消えていく事があります。表現していくと、その芸術家の魂は開放されます。光りに満たされて芸術制作をしていく中に、自由に演奏していく中に、詩作を自由にやっていくと、身体が健康になって行きます。それは光が芸術家に満たされて、闇が消え去るからです。光りの芸術はこうして生まれていく。天上のインスピレーションを無心に受け入れて表現していく。光りを表現していく。光りの通路ができて、作品を作り発表して、または演奏して、鑑賞者に光りを与えていく。光りに満たされ、魂を表現していく中で、開放して、自分に自信が出てきて、生活も充実していく事になって行きます。芸術の功徳として、生活も楽しくなってきて、充実するという事です。





12、まとめ(芸術家の修養)


 芸術家の修養のまとめとして、今まで語ってきた中で、自由と魂の開放という事を述べました。そして、自由になって行くには、人間の基本的な礼儀も大事であると言いました。芸術に精進していると、自然としっかりした人間になっていきます。芸術活動そのもの、演奏、執筆、制作が自らの身を修めることになっていきます。芸術をやることが、その作業そのものが祈りになっていきます。信仰心によって塗り込まれた作品、天上からの光りを奏でる演奏に多くの人を感動に導くエクスタシーがあること、そこに神降ろしができること。芸術をやっていることは、それは芸術の僧侶みたいなものであるかもしれません。もしくは、預言者です。芸術の使徒として、神の代弁者である芸術家として、多くの作品をもって世を照らしていきましょう。芸術そのものが文明の雰囲気をつくって、多くの人の心の潤いとなって行きましょう。芸術家であるあなた方も、その芸術をもって世を照らし、自らもしっかりして、多くの愛を、光りを与えていきましょう。一人の芸術家は、神の使徒であるという事を忘れずに生きていきましょう。精神の在るものが作品に100%出てしまう現実を考えてください。怠惰な中に傑作は決して生まれないという事。どうか、何度も言いますが、光りを表現していきましょう。それが芸術家にとって使命であることです。自由になって行くなかで天真爛漫な気風を大事にして、表現していきましょう。

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