見出し画像

「話してあげる」という傲慢さ。忘れてしまった当たり前。

どうも。いかたこです。
中学校で社会科の教員をしています。

もう3月も中旬、卒業シーズンですね。この時期、激励も込めて生徒の前で話をすることも多くなります。

ありがたいことに、みんな私の話を聞いてくれます。もちろん、「早く終われよ」って思っている生徒もいると思いますが、私は自分の話を生徒に届けることができます。

でも、そもそも人に話を聞いてもらうって、とても大変なことですよね。

相手の時間を取るわけですから、簡潔に内容が伝わるように、整理してから話す必要があります。また、自分が話す時間を作ってもらえるように、事前にお願いすることもあります。

働き始めて最初に感じたのは、話を聞いてもらうことの難しさでした・・・。

話を聞いてもらえることはとてもありがたいことで、だからこそ、話す前にしっかりと準備する必要があります。


自分はそのような感謝や誠意を生徒に向けることができているのか?

そんなことを疑問に思いました。

教員が前に立てば、不思議なくらい、生徒は話を聞くモードになります。もしこちらに意識を向けていなくても、「話を聞きなさい」の一言で話を聞かせることができます。

もちろん、生徒が聞こうとすること、生徒に聞かせようとすることを否定しているわけではありません。生徒に聞き手のマナーを守らせることは大切です。

でも、それなら自分は話し手のマナーを守れているのか?

生徒が自分の話を聞いてくれることが当たり前になると、「話してあげる」という感覚が強くなってしまいます。

いつの間にか、話し手と聞き手という関係の中に、上下関係を持ってきてしまう。そうなると、話す準備を怠ってしまい、分かりにくくつまらない話になってしまいます。

生徒の興味を惹けるようなジョークを交えながら話すことができればいいのですが・・・。私にはハードルが高そうです。

ならばせめて、話す内容を整理し、分かりやすく伝えようとすることを最低限のマナーとして、生徒の前に立ちたいと思います。

うーん、すごく当たり前なことですね。生徒の前で話すことに慣れてきたと思ったら、大切なことを忘れてしまっていました。


さて、ここまで教員を話し手、生徒を聞き手とする立場で書いてきました。ですが、決めつけてしまうのは良くないです。

対話による教育が広まっていく中、1つの授業でも話し手と聞き手が固定されることはありません。

よりいっそう、「聞いてもらえる」、「話してもらえる」という感覚を忘れてはいけませんね。

今回はここまで。それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?