読書note|『こころ』


  • 夏目漱石「定本 漱石全集 第9巻 心」

  • 岩波書店2017年8月10日発行

  • 416ページ


 漱石を読んだのは高校の教科書の「こころ」が初めてだった。それ以降は特別読んだりすることもなく、ただ心の奥底に静かに流れる小川のように漱石の文の響きを感じていただけである。その後だいぶ経って「草枕」を読みその文体と神経質だが優しさを感じる人柄とに魅せられて他の作品も読み始めた。「こころ」は読み返したいと思いながら時が過ぎ、たまたま今週がその時であった。

 人の心とは何であるのか。矛盾を多く抱えている。本当はこうしたいけどできないとか全然やるつもりがなかったのにその時勝手にそうしてしまったとかいう矛盾がこの小説にもよく出てくる。他の動物にもそういう脳の働きはあるのだろうか。或いは人間だけが論理と行動の間にこのような矛盾を抱えてしまうのだろうか。

 この小説はKそして先生の二人ともその人生を自らの手で終わらせてしまうが、日本語の文章が持つ湿度以上の暗さはないような気がしている。私は普段そういった内容が得意でなくまた現実においても自らの手でその生涯を閉じた作家などはあまり読みたくないという潔癖さであるが、この小説に関しては中心の話題であるのに読むまでうっかりそのことを忘れていたぐらいである。明るくはないがただ淡々と人のこころの不可思議な運動が記録されているようだ。

 「こころ」の連載が始まったのは1914年の4月20日、いまから100年以上前である。漱石は胃潰瘍による出血で亡くなる2年前で、47歳であった。明治天皇の崩御と乃木大将の自刃は1912年である。漱石は人間のエゴイズムと弱さ、そして明治の精神を作品のうちで蒸発させたのだろうか。当時の感覚というのは今の自分にはわからないが、人の心のはたらきはそう変わらないだろう。自ら終わらせるという行為は非常に個人的でありながら、また非常に社会的な側面もあると思う。これは人間に限った行為だと思っていたが、他の動物でも似た行為はあるようだ。小説の中で乃木大将の報知を聞いた先生が何かを感じたのも個人的な問題ではなく無意識の社会的な作用な気がする。あるいは自分の罪の意識を何かになぞらえて美しきものに昇華させようというはたらきなのかもしれない。またはそういった思考をすることそのものによって引き起こされる社会と隔絶されてしまった感じか。いずれにせよ明確な理由はあるようでなく、またないようで当人にはあるように感じられるものである。

 ここから感想はいかようにも広げられそうだが、これ以上の思考はやめておいた方がいいような気がしてきた。人間には寿命がある。それはある種不可避のプログラムのようなものであり、そのまま生きているとはたからみれば寿命と思えるものでその生命活動をゆるやかに終わらせるが、言葉によって、思考によってそれらに近づいてしまうのがこの行為なのかもしれない。作家にそれが多いのはそういうことかもしれない。

 意味を求めると破滅する。それは意味というものはないからである。私は意味には鈍でありたい。快、つまり美しきもののために生きようと思う。

 こころに関して、装丁の話、漱石の自費出版であった話、題字が漢字かひらがなかという話も面白いがインターネットやYouTubeで見た情報でありそれをそのままここに書くのは忍びないので今回は割愛した。

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