随筆(2020/1/31):手と目と頭を動かす労力は別にあり、せめて省力化によって一本化出来ればだいぶ楽になる

作業をする時に、手を動かす労力と、目を動かす労力と、頭を動かす労力というのがあります。
最初に何かやるとき、ルーチンなら
「これをこうすれば出来る」
と考えながらやることがよくあるし、試行錯誤なら
「今さっき失敗したのは、よく見るとあれがマズかったのか?」
とかよくあります。こういう時、手と目と頭をフル動員させている訳ですね。

慣れれば、具体例は神経の形の中に溶け込んでいって、運動のパターンの抽象化が『手続き記憶』(認知心理学の用語で、やり方に関する知識。条件を満たすとこれがスキルの熟練に直結する)として出来ていって、目と頭を動かす労力は減っていきます。手癖だけで出来る。
こうなるとかなり楽になってきますし、熟練も上がってきます。ここまではたどり着いておきたい。

もちろん後で
「本当にこれでいいのか」
「他人は自分と同じ神経を持ち合わせていないので、内容の解像度が落ちようが、手作業(マニュアル)を手引書(マニュアル)に落とし込まねばならない」
「昔は手引書を手作業に落とし込んでいたし、熟練によってさらに分かってきたこともあるが、慣れたら今度は増えた手続き記憶を言語化出来なくなっている。今度は口の労力も要る」

などなど、振り返り引き継ぎの際にはかなり避けがたく出てくる話もあるんですが、それもこれも手続き記憶が形成されてから初めてとやかく言えることなんですよ。やはり手続き記憶は形成されていてほしい。

ですが、その手続き記憶の形成というのも、場合によってうまくいったりいかなかったり、飲み込みが速かったり遅かったりする。
下手するとずーっと手と目と頭を動かさなければならなくなる。
当然、メチャクチャ神経を酷使する。疲れる。


頭の労力というのにもいくつかあり、
「あれかこれかを何らかの形で選択する」(『判断』)
というのと、
「TODOを覚えておいて、何か終わったら残りや次を思い出す」(『記憶』)
というのと、
「大まかに一つのトピックについて、集中して考える」(『計画』)
というのと、
「複数のことをマルチタスクで考えながら、混乱してどれかまたは全てが白紙にならないようにする」(『分散処理・並列処理』)
というのがあります。(他にもあるが)

どれも実はそれなりの労力ですが、私は記憶が特に苦手です。
平たく言えば、一つのことをしているうちに他のTODOをスポーンと忘れてしまう、思い出せなくなることがよくあります。
もちろんこれでは作業になりません。

こうなると、スマホにメモ帳(Evernote)でTODOを羅列したり、タスクマネージャー(Roubit)で毎週のルーチンを曜日や時間毎に書いて、時間になったらアラームを出させたり、そういうことをすると、これがとてつもなく助けになります。
判断や記憶についての労力が下がるのだから、頭の労力は大幅に減る。
何なら、計画ということの労力も、途中まで考えた内容をメモ帳に残しておくことで、さらに大幅に軽減されるまである。
こうなれば頭の労力はかなりなくなるので、頭の労力の采配に頭を悩ます度合いも減る。分散処理・並列処理の労力まで減った。分散処理・並列処理は、一般にかなり疲れることなので、ここが減ると途方もない省力化になります。

そうなれば、他のことに集中できる。手の労力のことだけ考えれば良くなるかもしれないし、もっといろんなことを考える余裕が出てくるかもしれない。それは、広義の生活において、もっと役に立つことや意味のあることや価値のあることかもしれない。そうなったらうまい。しめたものだ。

人には誰しも得手不得手があります。頭の労力が不得手な私は、こうやって、手続き記憶がなくとも、手作業が出来るように工夫して生きています。
もちろん手続き記憶が身に付けばそりゃあ便利ですよ。でも、延々とやってきたが、そうはならなかったんだからな。

仕事や仕事組織で大事なのは、やることであって、出来ることではない。
内的なスキルがなくて出来なくても、外的な工夫で出来るようにしてあり、やれるなら、それらは「やる」「やった」という観点からは同じことだ。

そして、「外的な工夫で出来るようにしてある」ことは、「内的なスキルがあって出来る」こととはまた別に、かなりの重みを持って評価されるべきポイントです。
内的なスキルがどうしても獲得出来ないなら、それにこだわらず、外的な工夫に頼るのも良いかと思います。


というか、内的スキル至上主義者、本当に手引書作らないで引き継ごうとするんですが、アカン。外的な工夫をしてほしい。
そこで「見て盗め」的な目利きの熟練の話を始める人、自分の「口の労力」の不十分さを、後輩や生徒や後継者の「目の労力」に転嫁している。ということにもう少し自覚的であった方がいい。
百歩譲ってそれも仕方ないとしたとしても(無い袖は振れないんだからな)、自分に説明能力がないだけでなく、相手に目利きがない場合、どうにもならなくなる。そうなった時に、後輩や生徒や後継者の目利きのなさだけを詰めるの、本当にダメですよ。それは先輩や教師や先代の説明能力のなさを何ら正当化しないんだから。それぞれ別の形で、「仕事組織で仕事が出来ない人」であるに過ぎない。
俺も3月末には、人事異動がありうるので、引継のために、手引書渡さなきゃならん。だが、たぶん今のままでは何も伝わらんだろう。アカン…ナントカします。

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