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哲学カフェのアップデート

 哲学とはなにか。この問いに対する考え方は色々あるが、とくに「自分の頭で考えること」という最もシンプルな行為を出発点にして考えてみたい。


 「自分の頭で考えること」──みなさんは1人で考え事をするとき、どのような場所に足を向けるだろうか。


 熱いコーヒーを片手に自宅の書斎のドアをそっと閉じるひともいるでしょう。あるいは仕事を終えたその足で、眠れぬ夜の雑踏をあてもなく歩き始めるひともいるかもしれない。


 色々なひとがそれぞれに日々色んなことを考えなければならないのが、現代社会の条件でもあります。なので、ひとによって「考える時間の過ごし方」もまた色々な形が存在し、だからこそたくさんのひとが行き交う空間であるところの〈街〉にも色々な〈場所〉が存在している。


 では、どんな〈場所〉が考え事をするのに適していると思われているのだろうか。それは図書館に行くとよくわかります。どの〈街〉にも大抵は図書館があり、そこでは老若男女問わず色々なひとが静かに紙の本と向き合っています。


 色々な本が色々なジャンル分けされた本棚の中に収められています。ひとは考える時間の多くを本と共に過ごしています。一口に本といっても色々あるわけですが、特に「難しい本」を読むことは時間もかかるし、色んな言葉が出てくるので疲れてしまう。


 哲学は一般的に「難しい」というイメージがあり、したがって「疲れる行為」の代表格に挙げられることがとても多いジャンルです。そして、それは真実でしょう。しかも、哲学や思想と呼ばれるジャンルの書物に登場する言葉は聞き慣れないものや他の書物からの引用なんかも多いので、とてもその本一冊で思考が完結するわけもなく、色んな本に興味が出てくる。自宅でいわゆる「積ん読」がドサッと積み重なっている状態の人も多いのではないでしょうか。


 自宅の書斎に籠もった分、気分転換も兼ねて散歩に出かける人も多いでしょう。とくにあてがあるわけではないが、少し歩き回りたい。そんな時にもひとは考え事をしている。散歩中、目に入った看板の文字やすれ違う人々の話し声なんかが耳に入り、それまで考えていたことに意外な方向性が与えられたり、マドレーヌを食べたら昔の記憶が蘇って思わぬ直観を得たりもする。


 さてここで、タイトルにある通り、「哲学カフェ」というものがあります。主に、ある哲学的な命題についてみんなで議論をしてみよう、といった趣旨の場所がそうなのですが、おそらく『これからの「正義」の話をしよう』や『ハーバード白熱教室講義録』などの著作で一躍有名になった政治学者マイケル・サンデルのスタイルをベースに作られたサービス形態だと思います。


 多くの「哲学カフェ」は〈議論〉といった堅苦しい言葉ではなく〈対話〉という言葉を好んで使います。〈対話〉は確かに大切です。プラトンだって、ソクラテスを主人公にした〈対話篇〉ばかり書いています。しかし、それは即座に「対話することは哲学である」とはならない。なぜなら「哲学的命題について対話することは哲学である」はシンプルにトートロジーだからです。


 この形態しか本当に今の時代に合った〈哲学〉はありえないのか。なんだか賢そうな人がいて、その人に教えを請い、みんなで話し合ってみる。なんだか小学校で授業をしているような風景です。MCがホワイトボードの前に立ち、「“みんな”で考えること」の“みんな”である人々が椅子に腰掛ける。サンデルが促すように「全員参加型」だからこそ「白熱」するのだ、というのがそのスタイルの世界観でしょう。


 しかし「何に白熱しているのか」と考えたとき、このスタイルの中でMC以外の参加者は「いい意見をアウトプットする機会を逃すまい」と全体に集中しているがゆえに、MCの「回し」と“みんな”に気を取られ、実際にはインプットの回路が白熱している状態に陥っている。トークテーマが「シリアス」なだけで、「自分の頭で考えている時間の創出」を唯一アウトプットたり得る作業とする〈哲学〉の本分とは正反対な空間になってしまっているのです。


 「哲学すること」は、「勉強すること」の言い換えではないはずです。読んだ本を一度閉じ、話した相手としばし別れる。そのあとに「いい勉強になったかな」と逡巡しながら歩き出すとき、勉強が終わり〈哲学〉が始まる。「哲学すること」は、限りなく「休憩すること」と似たものとして訪れる。補習の終わりを告げる終業のベルが鳴り響くと同時にアタマが切り替わり、自分がその時最も必要としている考えごとができる。思い返せば、そのようにして私たちは生きてきたのではないでしょうか。


 緊張と緩和。勉強は常に緊張を強いる。半ば強制されたそのモードからの緩和状態への移行は、むしろ考えずにはいられないものを暴く。リラクゼーション・マッサージによる完全なリラックス状態へ弛緩していくこととはまた異なる休息を名指すためにチル・アウト(chill-out)という概念が一般化しているのでしょう。


 ニコニコ動画の時代に「作業用BGM」が一般化し、それを下地にした「lofi-hiphop」などの長時間動画が日本においても一般化している現象と並行していて、それらの動画の多くに「勉強している様子の絵」か「ベッドで休んでいる様子の絵」が採用され「study」や「chill」のタグが付いていることも、人々の欲望の微妙な変容とみることも可能です。


 「白熱教室」と異なる新しい哲学カフェが演出すべきコンセプトは、「ゆるい白熱教室」ではなく「アツい休憩時間」なのです。本当の哲学カフェは、激しいダンスと共存する形で〈哲学クラブハウス〉の中にしれっと用意されているのかもしれません。


 わかりやすく疑問形に変換すると、「なぜ図書館の中に〈対話室〉のようなコミュニケーションルームが用意されていないのか」という着眼点でもあります。ぼくが不勉強なだけでそういう場所は設けられているのかもしれませんが、あまり見かけません。図書館や書店や(漫画という書物が揃えられた)ネットカフェ、哲学カフェなどの良い所を組み合わせたような空間ができるといいなと思います。

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