見出し画像

「三多摩サマーオブラブ 1989-1993」第10話

秋も深まり、1989年10月も後半に差し掛かろうとしていた。

「東京Z大学の学祭が面白い!」とハルノが新しい校舎の方の学食のいつもの席で我々を誘ってきた。

我が美術大学は11月3日の文化の日に絡める日程なのだが、東京Z大学の学祭は10月下旬に行われるのである。

この年の春、TV音楽番組『いかすバンド天国』は大ブレイクをしていた。

オーディション形式で、アマチュア・バンドが勝ち抜きバトルをする番組で、5週勝ち抜くとイカ天グランド・キングとなってメジャーデビューできる、という筋書きであった。

その5週勝ち抜き「初代イカ天グランド・キング」となったのが「フライング・キッズ」というバンドであり、メンバーは我々の美術大学と東京Z大学の混成であった(浜崎氏のみ学芸大学)。

1989年の春に上記の「いか天グランドキング」になったフライング・キッズの「凱旋」ライブが、この10月の東京Z大の学園祭で行われるとのことで、我々三人+ヒカリくんは高尾山へと向かった。

フライング・キッズのライブは野外ステージで行われ、客席のグラウンドは立錐の余地もなく満員だった。
我々はそれを高台から見下ろしていた。

全く美術大学と関係ない私の高校時代の留学関係の知り合いにバッタリとあうほど、このころのフライング・キッズは大ブレイクしていた。

ところがライブが終わると、ヒカリの姿が見えない。

すると学内放送が聞こえた。

「ヒカリ様のお知り合いの方がいらっしゃいましたら、医務室までお越しください~」

ハルノが急いで駆けつけると、ヒカリは「トイレの個室で安物の乾燥植物を摂取して具合が悪くなって倒れた」とのことで、さっさと一人で帰らせた。

我々はその報を聞いて爆笑した。

そのまま、ハルノの出版社でのバイトの同僚で、Z大学に通ってるカンちゃんのバンドが夕暮れと共に始まった。

「ぱくぱくわんわんバンド」というそのバンドは、ジュディ・オングの『魅せられて』や、北島三郎の『祭』を演って、オーディエンスに狂ったように受けていた。

その後に業界でブレイクする「オナペッツ」もステージに居た。

我々もステージ下から舞台上のカンちゃんに挨拶しながら、『祭』でZ大生たちと一緒にモッシュした。(筆者註:その時の、やたら歌の上手い男性ボーカリストとは7年後の中目黒で「業界人御用達のワイン・バーのマスターとその客として」再会することになる)

そして、夜も更けてくると、ステージ脇に積まれた巨大スピーカー群に人が集まり始めた。

「ランキン・タクシー&タクシー・ハイファイ」のDJセットである。

我々は巨大スピーカー群が鳴らす爆音レゲエを聴きながら、気持ちよく身体を揺らした。

さて、1週間後は我々の美術大学の学園祭である。

***********************************************************

「ヨシオ」という名前の、うちの美術大学の建築学科の知り合いがいた。

いつもオフロードバイクに乗り、MA-1を着た、固太りの腕力に自信がある風情の男であった。

一学年上だが、同い年で同郷でもあるヨシオとは、会えば挨拶はしていた。

その前年に卒業していたヨシオと八王子の駅でバッタリ会うと「おう、今から駅前のスタジオで芸祭(筆者註: 美術大学では学園祭の事を芸術祭、通称「芸祭」と呼ぶ)に出るバンドの練習やるから見に来ないか?」と誘われ、暇だったので見に行った。

バンドはジミヘンやステッペン・ウルフというクラシック・ロックのカバーを演ろうとしていた。
メンバーの主体は建築学科の私の上の学年のOBの連中であった。

私を含め、スタジオには何人かギャラリーが居た。

「じゃあ『パープル・ヘイズ』ね」とヨシオが言った、彼はヴォーカルであった。

なんとも酷い演奏であった。

ドラムがヨシオの彼女で、その彼女がほぼ素人なのであった。

(おい、本番5日前にこの演奏は流石にマズいんじゃないか!?)と、全く関係のない私も焦った。

「ちょっと、どいて」

私はドラム担当のヨシオの彼女をどかすと、
ドラムスツールに座った。

私は「じゃあオレが「お手本」を叩くので、よく見ててね」と言って、「はい、『パープルヘイズ』!」とキューを出した。

この辺のクラシック・ロックは、私が上京してからやってた地元の知人とのバンドで腐るほどセッションをしていたので、もう構成からドライブ感から細かいフィルインまで完璧に叩けるのだ。

イントロで私のドラムが入ると、スタジオの空気が変わった。

私は、ヨシオ達メンバーに向かって、完璧なクラシック・ロック・ドラムを披露した。

曲が終わるとヨシオが「ジョージ、オマエ、すげえな!」と言った。

ギターやベースはちゃんと弾ける人たちだったので、その場で協議が始まり「ジョージ、ドラムやってよ」と急遽、助っ人としてそのバンドのドラムとして芸祭に出ることになった。

『パープルヘイズ』、『ワイルドで行こう』に加えて、ブルース・ブラザースのナンバーも何曲か、もちろん私にとっては寝てても叩ける曲であり、内心は(今さらこんな手垢曲人前でやるなんてダセえな、おい)と思っていた。

スタジオで一通りの曲をやると、安どの空気が流れた。

ギターやベースはそれなりに弾ける人たちだったので、休憩がてらブルース・セッションが始まった。

緩いシャッフル・リズムでソロ回しをしていると、ヨシオが見学の女の子二人に「なんかアドリブで歌え」と催促した。

まあ普通の女子大生はこんなバカげたことは絶対にしないが、ここは社会の無法地帯、美術大学である。
普通に一人目の女の子がアドリブの歌詞をつけて歌い始めた。

二人目が歌い始めた瞬間、私はドラムを叩きながら驚愕した。

フレーズ、声質、声量、グルーヴ、、、、モノが違う!!とビックリした。

私の目は彼女に釘付けになった。

リハーサルが終わってから、「キミ、いいね~!」と声をかけた。

彼女は照れながらも毒舌で「だって、ヨシオさんのバンド酷いから心配で」と早口で笑いながら返事をしてきた。

彼女の名前は森田公子、二学年下の彫金学科であった。

5日後の1989年11月3日。

さわやかな極まりない三多摩の秋晴れ、天高い青空の下、うちの美術大学の芸術祭が始まった。

私は、まだ明るいうちにメインの野外中央ステージにヨシオ・バンドで出演した。

ドラムの横のモニターは全く聞こえなかったが、それでも問題ないくくらいに曲は熟知していた。

森田公子は何故か着物を着てステージに上がっていた。

そつなくステージをこなして、模擬店の間を歩いていると、先輩であるグラフィックデザインを卒業したタツロウさんが声を掛けてきた。

「いいドラムが聞こえるなあ、と思って観に行ったらイワサワだったよ!」

と話しながら、二人で中央ステージ下に向かう「情念」という名の名物バンドが演奏をしていた(筆者註:アングラ業界で一時有名だったこのメンバーの女子は、後にとある事件で全国的に有名になった。私も本人とは一言、二言話したことがある)。

そんなうちに陽も暮れてきて、遅れてやってきたハルノとコヤマと合流した。

午後8時を回るころ、屋外中央ステージにトリの「動物ランドバンド」が上がった。

うちの美術大学の「軽音楽部」の精鋭を集めたこのバンドは、うちの美術大学の「スーパースターたち」の集団でもあった。

特に、ギタリストのヌマサワはそのスターたちの中でも一番の有名人であった。

「うちの美大でヌマサワ知らなきゃモグリり」とまで称されるほど、圧倒的なカリスマを誇っていた。

彼は酔っぱらうや否や、ありとあらゆるシーンですぐに全裸になり、その「ハチャメチャ」なキャラクターは皆に愛されていた。

そして、常にギブソンのセミ・アコースティック・ギターES-335を抱え、20代前半とは思えないほど渋いフレーズを連発する彼は、その音楽的実力においても周りから一目も二目も置かれていた。

その彼のバンドが屋外中央ステージに登場し、満杯の客は大騒ぎである。

メンバーは、キーボードのミイケ、サックスのシマムラ、ギターのハラ、さらにヌマサワの彼女である「ユンちゃん」を筆頭にした美人おねえさんコーラス隊と、いわゆる「学内セレブ」たちが一堂に会していた。

彼らは、20代前半とは思えない技量で「サルサ」を演った。

私とハルノとコヤマはステージを見上げながら最前列で踊りまくった。

見上げるステージ上の「学内スター」たちは、光り輝いていた。

そして中央ステージが終幕した後、模擬店の中で演奏するバンドを観て回った。

もちろんお目当ては、ヌマサワと双璧をなす「学内カリスマ」オトハくんを中心とする「パンティ・スキャット」というバンドである。

オトハくんはスライ・ストーンの歌を難なく歌いこなす天才で、その「ちょっと退廃的」なルックスも伴い、学内外で絶大な人気を誇っていた。

さらに、私個人はこのバンドのコーラスの「トシコちゃん」の大ファンで、「ものすごく冷たそうな”クール・ビューティ”」の美貌で、真っ赤なフレア・パンツで歌い踊る彼女の姿を先週の東京Z大学の野外ステージで観て以来、私の「憧れのアイドル」となっていた。

そのパンティ・スキャットのライブ(トシコちゃんは相変わらず真っ赤なフレアパンツ!)を模擬店で観てから、ハルノとコヤマと体育館で開催されている「オールナイト・ロックフェス」へと向かった。

これは、プロのバンドを何組か呼んで「一晩中」ライブをやる、
うちの美術大学の名物イベントである。

毎年の目玉は「吾妻光良 & The Swinging Boppers」である。

この時点で、かれこれ10年近く毎年出演しており、このフェスの象徴といえるグループであった。

超満員の体育館の中で、我々はステージかぶりつきでスウィンギング・バッパーズの演奏で踊っていた。

すると、突然左目の辺りに物凄い衝撃が走った。

(殴られた?)と思って左を向くと、満面の笑みを浮かべたハルノが立っていた。

どうやらハルノはステージから「ダイブ」したようだ、私の方に向かって。

「スウィング・ジャズ」でダイブするバカがどこにいる!
と私は呆れつつも、そのバカさ加減に感服した。

そして、チルアウトするために外に出ると、森田公子とバッタリ出会った。

私は彼女に一生懸命に話かけ、そしてお酒も入っていた二人は盛り上り、体育館の外の階段に座って語り合った。

暫くして、二人で夜中の体育館に戻り、フロアの後ろの方で一緒にバンドを聴いた。

こうして三多摩の秋の宴の夜は更けていった、、、

************************************************************
さて、

時は1989年11月上旬、芸祭が終わると数日間大学は休みであった。芸祭の終わったすぐ翌々日に我々三人はいつものように東小金井の「スタ城」に集合した。

奥の座敷席でひとしきり海鮮に舌鼓を打つと「そろそろ行くか」と店を出た。

コヤマの車に皆で乗り込むと、車はそのまま関越自動車道に乗った。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?