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私の定義と幸福の定義

「何でも見てやろう」からの思考

2022/1/18


私は家族と喧嘩したとき、私は怒りを感情を露わにした。

その時、発した自分の言葉に驚いた。

「 私は、歩きたいだけなんだ。」

「 私は、歩きたいだけなんだ 」って、怒りの感情が吐き出させた言葉に過ぎないのだが、その圧倒的事実に、言語化された無意識にある信念に気付かされた。

人は、自分の吐く言葉で生きている。
① 私たちは、言葉を使って考えているから、言葉は思考の源泉である。
② そして、私たちは、自分の吐く言葉に従って、行動している。
③ また、行動することで、言葉が生まれてくることもある。

「 怒り 」という感情が、心の奥底に仕舞い込んでいた「 私のやりたいこと 」を言葉にした。

私は、私の知らない世界を、見てみたい。
私は、世界を歩いてみたい。

知らない世界を歩くことは、非日常は、私たちの人生を長くする。同じような毎日は、あっという間に過ぎてしまい。記憶にも残らない。新しい街を歩くことは、知らないことをわかることは、記憶に残る。

私 = 過去の記憶 + 現在の意識 + 現在の肉体

という風に「 私 」を定義付けている。「 私 」の総量を増やすには、過去の記憶を持っている方がいい。同じような毎日は記憶に残らない。日常生活という習慣は、過去の記憶だけれど、すぐさま忘れ去られてしまう。そうすると、私の総量は増えない。

私の総量とは何か?

幸福の総量である。

幸福とは、現在の私の意識が決めるモノである。
私が「 今、幸福である 」とおもったなら、私は、幸福である。

・お金があっても幸福でない人もいる。
・お金がなくても幸福な人もいる。

私たちは、自分の価値観、それは、過去の記憶によって作られた妄想に過ぎないのだが、自分の価値観という名の妄想によって、現在の意識で「 幸福足るかどうか 」を判断する。

「 幸福であるかどうか 」は、自分の価値観次第である。
「 幸福であるかどうか 」は、過去の記憶が作り出した妄想に過ぎない。

幸福は、お金じゃないし、豪華な料理でもないし、欲しいすべてのモノ = 物質ではない。そんな目に見えるモノに、幸福は宿らない。

幸福は、目に見えないのだから、目に見えるモノで、幸福は満たされない。

幸福は、目に見えない、幸福は頭の中にある。
頭の中で、思考することで、幸福は形作られる。
形作られた幸福は、思考の産物であるから、妄想である。

私と幸

私は「 私 」を定義した。

私 = 過去の記憶 + 現在の意識 + 現在の肉体

現在の「 私 」という人間の要素を分解したら、
「 過去の記憶 」
「 現在の意識 」
「 現在の肉体 」

という風になった。

現在の私の定義式にある要素それぞれを大きくすることで、私の総量が大きくなる。

「 私の総量が大きくなるとどうなるんだろう?」って考えた。

そうしたら、私の総量が、幸福の総量であることに気付いた。

私の総量 = 幸福の総量

つまり

幸福 = 過去の記憶 + 現在の意識 + 現在の肉体

というふうに、置換できる。

「過去の記憶」

「 過去の記憶 」は、いつでも引き出せる。そして、その記憶を思い出すことで「 楽しかったなー 」という気持ちになる。同じような毎日は、記憶に残らない、思い出せない、「 楽しかったなー 」ってならない。

過去の記憶は、日常の中では、忘れ去られてしまう。

だから、非日常が必要なのだ。

「 非日常の中を歩く 」ことで、私の記憶は保存される。
過去の記憶が蓄積されていく。
幸福の総量が増していく。
いつでも引き出せる、たくさんの思い出深い記憶がある。

「現在の意識」

「 現在の意識 」とは何か?

私たちは起きているときは意識がある。寝ているときは無意識である。だから、意識を最大化するためには、できる限り意識がある状態、つまり、起きている状態を長くすることになる。寝なければ寝ないほど、幸せである。死ぬまでの時間が有限ならば、起きている時間が長い方が、いろんなことができる。

しかし、寝ることが好きな人もいるので、一概には、言えない部分もある。

そして、「 意識がある時間が長ければ、幸せだ 」ということに、しっくりこない、腹落ちしない人もいるだろう。ただ意識があるだけではなくて、その意識がある中で「 自分は何をするのか? 」ということが重要だからだ。

・ただ、ボーとして過ごす時間が幸せなのか?
・ゲームをする時間が幸せなのか?
・テレビ・YouTube・Netflixを観て過ごす時間が幸せなのか?
・走ったり、泳いだり、スポーツしたりする時間が幸せなのか?
・みんなで協力して仕事をやり遂げることが幸せなのか?
・友人と酒を呑んで語らうのが幸せなのか?
・好きな人とデートをするのが幸せなのか?
・家族と食事をするのが幸せなのか?

自分が「 どんなことを幸せだとおもうのか 」を定義した上で、幸せなことで自分の意識がある時間を過ごすことだ。そして、その自分が「 幸せだ 」と思う時間が長い方が、より大きな幸福感を得られる。

一方で、時間を感じる長さは、状況によって変わる。

・仕事が、つまらなくて、暇な時間は、長く感じる。
・好きな恋人、仲の良い友人、大切な家族と過ごす楽しい時間は、短く感じる。

時間は、一様に流れているはずだが、その体感速度は、「 何をしているか 」によって異なる。実際の時間よりも、体感時間の方が重要である。

・私たちは、楽しいとき、集中しているので、時間が早く過ぎてしまう。
・私たちは、つまらないとき、集中していないので、時間が遅く感じる。

集中しているとき、体感時間は短くなる。仕事でも、ゲームでも、遊びでも、人と過ごすときでも、夢中になっていると、あっという間に時間が過ぎてしまう。熱中 = 集中によって、体感時間は短くなる。しかし、その時間は、充実しているし、幸福な過ごし方である。

普段、私たちは意識していないけれど「 何かに夢中になって、集中して、時間を忘れている 」というのは、ひとつのナチュラルハイのような状態である。しばらくして、振り返ってみると楽しかったし、もっと未来で振り返ってみると「 幸福だったな 」とおもうんだ。

絶対的な時間が長くした方がいい、起きている時間が長ければ長い方がいいけど、その意識がある状態で「 何をするのか 」によって、幸福度は変わるし、体感時間も変わる。体感時間が短いほど、熱中して、夢中になって、集中しているので、充実している。あとから、振り返って、幸福感を得られる。

「 現在の意識 」の最大化は、体感時間の最小化にあった。

「現在の肉体」

「 現在の肉体 」は、病気にかかっておらず、健康であることが必要になる。「 病気があって、どこかしらかが痛い 」とか「 薬のために定期的な通院が必要だ 」とか「 体がうまく動かせない 」とか、そういった煩わしさが常にあって、そのことを気にしながら生きることは、幸福とは言えないだろう。

「 現在の身体 」が健康であれば、それは幸福なのだ。

幸の道

私は、私を定義して、私の幸福を定義して「 非日常を歩く 」という結論に達した。

しかし、実際には、「 非日常を歩く 」という行為から、私の総量や、と私の幸福の総量という概念が生まれて、私が定義され、私の幸福が定義された。

思考から行動ではなく、行動を言葉にして分析していくことで、定義付けて、算数にしていくことで、モノゴトは可視化されていくんだ。


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