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死への不安

20240312

人間存在の根本には、死に対する不安がある。
ハイデッガー『存在と時間』

私たちは、死への不安がある。
死は、この世界の誰も知らない現象だからだ。
臨死体験は、実際には死んでいないから、幻想の域を出ない。
死んだ人は、この世界にいない。
死ぬということが、わからないから、不安なのだ。

私たちは、いつか死ぬということを理解はしている。
でも、毎日、「死ぬかもしれない」という不安に脅えているわけではない。
遠い未来に死ぬかもしれないけど、そんなことを考えてたら、毎日、楽しく生きられないから、ひとまず、その問題には蓋をして生きている。
死という問題を未来の自分に預けている、死が迎えにくるまで。

死の問題を先送りにしたからといって、私たちの不安が消滅するわけではない。死は、わからないことが不安の種であったように、同じようにわからないことに対して不安を持つ。

未来である、未来は何が起こるかわからない、だから、不安なのだ。

未来に対しての漠然とした不安が、現代人の不安であろう。きっと、敗戦後からバブル期に至るまでは、時代が加速度的に成長していたから、未来に対しての不安を持つ人は、いなかったはずだ。
バブル崩壊以降の停滞した時代で育った世代は、未来がどうなるかわからないから、不安なのだ。現在の投資ブームは、その不安の象徴であり、不安を源泉としたマネーゲームである。

世界が人口増加を続ける限りは、資本主義は生き延びていくだろうが、世界人口がピークを迎えた後、世界が緩やかに降っていくとき、資本主義の終わりを告げる鐘が鳴るだろう。人口増加を前提とした世界が資本主義なのだから。

不安を失くすことは難しいが、知識によって不安を和らげることはできる。

未来は何が起こるかわからないから、不安ではあるけど、楽しみでもある。未来が完全にわかっている、ゲームのような予定調和の人生は楽しいはずがない。そして、良いことばかりの人生も楽しいはずがない。主人公が負けないゲーム、レベル99で始めるゲームが楽しいはずがない。
人生は、人生ゲームは、不安を内包し、予定調和でないから楽しいのだ。

私たちは、ゲームのように失敗もする、成功よりも失敗の方が多い、だから、成功を楽しむ。
私たちは、不幸を経験しているから、幸福を求める。

ゲームのレベル99のような、家柄もよく金もあり、頭脳明晰で、容姿もよく、何不自由ない生活は、幸福と感じられるだろうか。他者と比較して恵まれていると感じることはあるかもしれないが、自分自身で、幸福を感じられるだろうか。

幸福は、不幸があるから、そのギャップを感じるのであって、絶対的幸福は存在しない。幸福は相対的存在なのだ。

それは他者との比較ではなく、自分自身の人生の軌跡によってもたらされる。

小さい子どもは、人生経験がないから、自分が幸福か不幸か判断がつかない、それどころか、幸福か不幸なんて考えない、未来について不安になることもない。毎日を、今現在を生きることを楽しんでいるからだ。

私たちが、幸福や不幸、未来や不安について考えるのは、人生を経験してきて、大人になったからである。

「子どもに帰れ」といっても、そんなことは、不可能だ。経験したことは、なかったことにはできない。

不幸な経験を通して、幸福を享受するのだ。

例えば、病気やケガで、身体がいうことをきかない不幸な経験を通して、五体満足の健康という幸福を感じるのだ。

未来への不安は、人生が予定調和でないことの証しである。未来は、不安になりながらも、何が起こるかわからないことを楽しむしかない。

死への不安も、同様だ。
未来が、わからないことを楽しむように、死が、わからないことを楽しむしかない。

死への不安の克服は、死という未知を楽しむことに他ならない。







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