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短編小説「老婆」


 廃村の小屋というのは長年雨風に晒され、修繕なども勿論されない。そんな小屋はこの国で幾つも存在し不思議なことに皆どれもある年月を境に、似たような外見に整い始めるものである。立方体や直方体で形容する事のできた小屋は、まず日照時間の短い四方のどれかしらの柱が先に朽ちる。その朽ち方に時間の差こそあれ四方の一つの柱が倒れると残りの三方も追従して腰を折る。しかし、そこで小屋は幼児が作った積み木の家の様に絶妙なバランスを見せるのである。




 それらはまだ古屋と呼べる。崩れている様に見えるが完全な倒壊ではない。その証拠に多くの倒れた古屋はある程度の空間を内包し、将来訪れる倒壊を心待ちにしている様にも見える。そんな小屋を敬愛する人物こそ、この物語の主人公の老婆である。




 「私はこの子が可哀想でなりません」そう呟く初老の男性は、上質な黒色のスーツ姿で胸に抱く赤子を見つめていた。男性の立つ足下の下には網目の細かい絨毯が敷かれており、左手に見える壁には、海外ドラマでよく見るような煉瓦造りの暖炉が備え付けてあった。部屋の照明は仄暗く、暖炉が放つ薪の赤みが男性の短く刈り上げられた髪型と銀縁メガネを鈍く温めた。




 男性の纏う雰囲気は気品がありどことなく育ちの良さを匂わせていた。しかし彼は努めてその様な佇まいをしているのは、見る者が見れば見抜けてしまう。




 貧困という押し返すことのできない荒波が、彼ら親子に近づいてきていることが焦茶色の革靴に見える細かな傷の多さや、赤子を包む両腕の袖口に、時を知らせる物など付けてはいない様子から十分に察することができる。そして極めつけは、この場所に訪れているという事実である。親子はもうどうしようもないところまで追い詰められているのだ。




 「可哀想というのは随分じゃないか。その子は将来、私の後を継いでもらうんだ。光栄なことじゃないか」部屋の隅、暖炉の揺らめく炎の光が届かない場所から老婆は男性に話しかけた。ヒッヒッヒ、と小刻みな吃逆しゃっくりの様な笑い声を漏らす老婆は、屍蝋しろうのようなのっぺりとした艶をもつ安楽椅子に胎児のように足を折り畳み座っていた。





 「貴方のやろうとしていることはまるで、人さらいじゃないか」老婆の笑い声に耐えきず、男性は顎をひき冷たく言い放った。その男性の顔つきは対面する老婆からは、三白眼で突き刺すように見え一層愉快であった。




 「口には気をつけなきゃいけない。天に向かって唾を吐くと自分に返ってくる。その意味がわからないほど子どもではないだろ?」老婆は笑いながら話してはいたが、内容は紛れもなく脅しであった。老婆の思い描く通りにしなければ、男性の未来、いや明日はないという意味の脅しである。




 男性は安楽椅子に座る老婆をかいして、我が子の行く末に思考が絡め取られた。老婆の安楽椅子の肘掛けが男性の脳内でゆっくりと反対側の肘掛けまで伸びる。ゆっくりと上下に揺れ動く脚も同様である。船の操舵輪のように丸みを帯び、たちまち木製の乳母車へ変容した。色合いは変わらず屍蝋しろうであった。その乳母車の中を覗くと、今にも泣きそうな顔で載せられているのは我が子である。男性は手を伸ばし抱き上げようとするが叶わない。乳母車を押す老婆が私の手を押し退けるのである。




 「ボーッとしてどうしたんだい?ヒッヒッヒ。さあ、早くその子を私におくれ」老婆が安楽椅子から骨と皮でできた腕を伸ばした。その瞬間、男性は現実と思考の中での世界が妙な親和性を感じた。(この老婆に我が子を渡せば、どうなる……。二度と我が子に会うことは叶わぬだろう。それに我が子は老婆の元で、やりたくもない仕事を延々と強いられるに違いない。)男性は胸の中には、ふつふつと巨悪と立ち向かうための決心が産声を上げていた。その決心を確固たるものにするため、ちらと腕の中で眠る我が子を見た。




 母親に似た長い睫毛まつげは細い三日月の様な弧を描き、寝息に合わせ微かに揺れ動く。暖炉の揺らめく赤い光に染められた頬は、元来色白な肌をより際立たせていた。神の采配により決められたとしか思えない、感覚器官の配置からも我が子は既にモデルになれるだろう。親馬鹿と言われても仕方ないが、それ程男性にとって我が子は愛らしかった。そして、その感想をもって男性の中で産声を上げた決心は、くすぶりすら残さず鎮火した。




 「お義母かあさん、本当にこの子の親権を渡せば口止め料込みで一千万円貰えるんですよね?」「勿論だ。馬鹿な娘の子ではあるが一応は私の血が入っている。そして、どうしようもないくずではあるが見てくれはいいお前の血も入っている。必ず私を超えるスーパーモデルにしてあげるよ」そう話すと老婆は折り畳んでいた長い足を伸ばし、腰まで伸びた艶のある白髪をなびかせながら男性のもとまで歩み寄った。老婆は赤子を貰い受けると、慈愛に満ちた表情で自分の胸に抱き寄せた。眠る赤子の表情に亡き娘の面影を見たのである。




 「あなたが大きくなったら私のお気に入りの廃墟の古屋をバックに写真を撮って、写真集を出してあげるね。ヒッヒッヒ。美女と古城や廃墟ってのは昔から人気のある組み合わせだからねえ」老婆が赤子に夢中になり話しかけている中、男性は既に手元にくるであろう一千万円をどのギャンブルで倍にするかばかり考えており、老婆の未来予想図など聞いてはいなかった。





 

 

 

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