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鳥山明訃報と著作権 作家の権利と編集の権利

鳥山明さんの早すぎる死にお悔やみ申し上げます。

世界中が弔意を示しているようで、その影響力の大きさをあらためて認識させられました。

ただ、わたしは、世代としてはあまり影響されなかった。

それは、小谷野敦さんなんかと同じですね。


鳥山明は対象年齢じゃなかったから思い入れはない
(3月8日 12:37)


むしろ、68歳での死に、老人として、他人ごとではないなあ、と思うくらいで。


顔写真の有無


それよりも、今回の訃報で、著作権や編集倫理について、考えさせられることが多かった。

まずは、「故人の意思」を尊重して、顔写真を載せなかった中日新聞。


鳥山明の訃報記事、中日新聞は顔写真を載せていない。「鳥山明さんは生前、顔写真の公表を望んでいませんでした。このため、本紙は顔写真などを掲載しません。」との断り書きがある。故人の意思尊重の仕方として、こういう方法もあるのだな。
(Andy@音楽観察者 3月9日 7:41)


鳥山さんの地元紙だけに、気をつかったということでしょうか。


こうした措置を評価する人もいるかもしれませんが、ジャーナリズムとしては、大いに疑問ですね。

本人が拒否したら載せなくていいのか。その意思はどこで確認するのか。有名人でも、そうでない人でも、それは同じなのか、とか。

顔写真を使っているところでも、明らかに若いときの写真しかなく、「近影」がなかったですね。なにか制限がかかっているのでしょうか。


影響力が大きい人ほど、ほんとうは載せなければいけない。それが、歴史を記録するということだから。

本人の希望に沿うというなら、ジャーナリズムではなく、広報になってしまいます。

そのあたりの議論を、マスコミ内でしてほしいところです。


「書影」に許可は必要か


いっぽう、鳥山さんの訃報と同時に、鳥山さんとは一見遠いところで、「書影(本のカバー写真)の掲載権利」をめぐる議論があったんです。

文芸批評家の豊崎由美さんが、書影掲載の許諾をとろうとしたら、版元から、原稿の中身を見せろ、と要求されたらしい。


ちょっと驚いたことがあるんですけど。 担当してくれた編集者が書評で取り上げた本の書影許可もらおうとしたら、引用部分のページ数を載せろとか引用した箇所のページのコピーを出せとか要求してきたそうなんですよ。そんなこと今まで言われたことがない。納得がいかない。 明日自分で抗議するつもり

(豊崎由美 5月8日00:53)


引用の要件を満たしていれば本文の使用は許諾不要です。 書影は厳密には許諾が必要だけれど、基本的に書評で許諾を出さないことはないので許諾を取らない媒体が多いのだと思う。
(藤村(編集者) 3月8日 13:09)


逆に言うと「どこかで紹介していただくメリットの方が普通は大きい」と考えない版元が仮に現れたら、書評に書影を使うのは無断使用だとクレームをつけてくる事態も考えうるわけですね。書評NGは法的に争ったら勝ち目なさそうだけど、グレーゾーンである書影から攻めて書評を止めるって戦法はありうる。
(栗原裕一郎 3月9日15:46)


引用については、上の「藤村」さんの言うとおりで、こういう「検閲」行為は、いまの業界でも非常識でしょう(と信じたい)。

しかし、そもそも、書影の掲載に許諾が必要なのか、というのがここでの問題です。

最後の栗原さんが心配するとおり、書影の掲載に許可が必要だとすれば、拒否されたとき、「書評を止める」ことにもなりかねないわけですね。


わたしの編集者のキャリアの中で、「書影掲載に許諾がいる」なんてことはほとんど頭にありませんでした。

それでも、キャリアの終わりごろに、やたら「書影掲載の許諾」を求める文書やらメールやらが来たのは事実ですね。

「どんどんつかってください。つかい倒してください」

としか答えなかったですが。

「いちいち、せからしかー。勝手につかえばいいじゃないか」と思いながら。

もちろん、それがいい書評か、悪い書評かなんて、こちらから聞いたことはない。「検閲」をしたら憲法違反だ、と思ってますからね。


わたしが業界に入った大昔は、書影は本を直接撮影するのがふつうだった。本さえ手元にあれば、版元に連絡する必要はなかった。デジタルデータをやり取りするようになってから、「許諾」の習慣も広がったのかも。

いつから、どうして書影に許諾が必要になったのか。

わたしはどうも、そこのところ学びそこなったようで、結局はっきりわからないまま退職しました。


でも、鳥山さんの訃報と同時にその議論をながめて、「は!」と思ったわけです。

「そうか、書影にマンガのキャラクターがつかわれていたら、権利に抵触するからか」

と。


こんかい、鳥山さんの訃報は、世界中で大きくあつかわれました。

その「大きくあつかう」動機の何分の一かに、

「やった! 鳥山のキャラクターが無許可でタダで使える!」

というのがあったんじゃないか、と邪推したんですね。



鳥山さんの死が世界中で報じられるとき、そのキャラクターの使用許諾を全メディアが取るのは不可能でしょう。

平時に編集記事としてつかう場合はともかく、突発的なニュース報道に必要な場合は、許諾は必要ないというのが、わたしの理解する国際的なルールです。そうでないと、速報できないですからね。

で、そこで、顔写真の問題も、書影の問題も、つながるわけですね。

もしそれらすべてに権利が主張され、許諾をもらうまでつかえないとすれば、漫画家の突然の死をどう報じればいいのか、と、なるでしょう。


顔写真を使わなかった中日新聞も、ドラゴンボールなどの書影を載せてますね。そして、マルCマークを入れている。

これは、許可をとったのか、それとも、マルCマークを入れたらOKという判断なのか。

キャラクター画像ならまだしも、書影にマルCマークを入れるというのが、わたしはやはり違和感がある。

こういう場合、むかしの新聞社の感覚では、「ニュースの場合は著作権は無視してOK」だったと思います。


編集権の問題


この問題は、もちろんマンガのキャラクターだけでなく、芸能人(アイドル)の写真とか、最近は、作家の顔写真にもおよんでいました。


編集者は、作家やタレントの権利を守るのも仕事です。

でも一方で、その権利が強く主張されすぎると、編集の仕事をしばることになるわけですね。

わたしは編集者も新聞記者もやったから、そこの「矛盾」を感じることがありました。

これは、作家やクリエイターにも、ブーメラン的に戻って来る問題でもあります。

書影の掲載が拒否されると、書評家が困るのはその一例です。



著作権や肖像権は、権利としてますます強まっている感じですが、「編集権」という概念はいまだにあいまいで、むしろ押され気味ではないでしょうか。


たとえば、見出しをつけるのは編集権のひとつというのが共通認識でしたが、最近は、自分の記事の見出しにクレームをつける筆者もいます。

本のおびの文句なども、最近は著者自身が書く、という例がある。おびは、宣伝物だから、本来は版元(編集者)の領分だという認識が、つうじなくなっています。


わたしが業界にいた30年のあいだに、ジャニーズ事務所によってタレントの「肖像権」が非常に厳しくなりました。

ジャニーズのタレントが載っている週刊誌の「書影」なんかは、ネットでタレントの顔だけマスキングされていたりして、異様でした。正気の沙汰とは思えなかった。

同様に厳しくなったのが、マンガやアニメのキャラクターの権利です。

ジャニーズ問題は、メディアが巨大な利権に平伏するとき、ジャーナリズムの死をまねくことを示しました。

いまやマンガ、コミックは時代の花形、巨大な産業ですが、その報道に変な「タブー」をつくらないようお願いしたい。


そして、ジャーナリズムの問題とあわせ、編集権を強く主張しないと、ますますメディアの手がしばられてしまう、と思うのです。

これは、いかにも業界的な都合のように思われるかもしれませんが、最終的には読者の利益にかかわります。

現役時代から気になっていたことですが、業界内でも認識がバラバラのようなので、この機会に議論すればいいと思いました。



<参考>


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